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篠崎が自宅マンションの部屋に入ると、彼の存在を確認した照明が勝手についていく。
ソファ脇に鞄を置き、ネクタイを外して、身を沈める。
スイッチでカーテンを閉めると、何とはなしにテレビのリモコンを掴もうとしたが、やはり止めてそれをそっとテーブルに戻した。
膝に肘を付き、顔を擦る。
目の端には、パソコン台に置きっぱなしだった、彼女からの手紙がある。
封は、彼から受け取り、彼をひどい言葉で追い出した後、その場で開けた。
破り捨てることも、ゴミ箱に投げ入れることも出来た。
それでも手元に置いておいたのは、手紙を読み終えたときに、胸に刻んだ決心が揺るがないようにだ。
それなのに……。
ソファに身を預け、天井を仰ぐ。
目を擦っていた手を額に滑らせた。
あいつの顔を見るだけで容易に崩れそうになる自分の気持ちの弱さに、失望する。
もう少しの辛抱だ。
八尾首展示場に異動になれば、会う機会も激減する。
物理的距離が出来れば、気持ちも静かになる。
その間に、彼が身を落ち着けてくれれば、きっと自分の中に未練たらしく燻っているこの感情にも終止符が打たれる。
「さっさと……」
篠崎は思わず声に出して呟いた。
◆◆◆◆◆
由樹は外壁を覆っていたカバーシートが外された家を見上げ、一枚、写真に収めた。
「俺も写っていいすか?」
隣で猪尾が微笑んでいる。
「あ、どうぞどうぞ!」
言うと、猪尾は「冗談だったのになあ」と笑いながらも、玄関脇に立って、敬礼のポーズを取ってくれた。
パシャッ。
「はい、今度は新谷君」
デジカメを渡して、自分も玄関脇に立つ。
「はい、笑って―」
由樹は笑顔で写真に納まった。
「……んじゃ、やりますかー」
猪尾は布手袋をはめていった。
「はい!よろしくお願いします」
由樹も慌てて手袋を取り出しながら言った。
工具箱を片手に外階段を上がる猪尾に続く。
「気合い入れて行きますよ。新谷君の第一棟目のお客様ですから!」
猪尾の言葉に、由樹は微笑んだ。
今日は向井田邸の引渡し前の最終チェックの日だった。
カバーの外された玄関ドアを開けると、新築のいい匂いがした。
それはいつか紫雨と訪れた門倉家とは比べ物にならないほど、木の匂いが濃くて、由樹は思わず深呼吸をした。
「じゃあ、框から順番にね?」
猪尾が言いながら毛布をひろげた上に工具箱を置く。
由樹は頷くと靴下のまま框に上がり、床に這いつくばった。
小さな傷や汚れがないか、床、壁、窓、天井、設備に至るまで、家一棟分、全てこのようにチェックしていくのだ。
「……猪尾さん、これ、傷ですかね?」
フローリングに這いつくばったまま叫ぶ由樹に、和室の敷居を点検していた猪尾が駆け寄る。
「いや、これは木目ですね。怪しいのがあったら爪先でカリカリして見てね。汚れだったら取れるし、傷だったら引っかかるから」
「なるほど、わかり……」
そう言いかけたところで玄関ドアが開いた。
「お、絶景だった」
紫雨が手袋を掛けながら、尻をこちらに向け、這いつくばっている由樹を見て笑う。
「突っ込んじゃおうかなー」
腰を掴もうとする手から何とか避けると、由樹は笑いながら上司を見上げた。
「お疲れ様です。ありがとうございます」
「おう」
後ろから林も手袋を取り出しながらため息をつく。
「ふざけてると新築に傷がつきますよ」
「あ、林さんも、ありがとうございます」
由樹は慌てて会釈をした。
「小さいね、何坪?」
馬鹿にするようにいう飯川も手袋をはめながら吹き抜けのホールを見上げる。
「33坪です」
猪尾が応えると、営業の3人はそっと框に上がった。
「じゃあ、さっさと終わらせよう~」
紫雨が2階に上り、林もそれに続く。飯川はだるそうにリビングに向かう。
「ありがとうございます!」
由樹は当然のように手伝いに来てくれた彼らに、もう一度頭を下げた。
「ういー」
「はいはい、いいからそういうのー」
彼らは振り返ることなく、家の中に散っていった。
由樹は微笑むと、また框に這いつくばってチェックを始めた。
引き渡しは来週だ。
そして由樹は、この引き渡しと共に、あることを決心していた。
この家が向井田家族にとって第一歩になる。
それに合わせて、この引き渡しを、自分の一歩と決めた。
タイミング的には今しかなかった。
篠崎が結婚すると言い、異動が確かなものになった、今しか……。
(俺もやっと、一歩を踏み出すんだ……!)
脳裏には、微笑んで頷く彼女の顔が浮かんでいた。