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展示場の掃除が終わると篠崎はパソコンを起動しシステムを開いた。
自分のスケジュールには「!」マークと共に真っ赤な警告表示がある。
【花澤 幸四郎様 打合せ期限 7日】
「やばいな…」
それを見て呟く。
間取りの打ち合わせは原則、90日を超えてはいけない。
それを超えると工期が遅くなるどころか、設計課を過剰に拘束してしまうことになり、そのルールは、「お客様ごとケースバイケース」などという理屈が通らないほど厳格化していた。
花澤夫婦は30代の若い夫婦で、夫が中学校の教師をしており、妻は近所のスーパーでレジ打ちのパートをしている。
気さくな夫婦で、そこまで要望も口うるさくなく、こちらの提案に快く乗ってくれるので、打ち合わせ自体は楽なのだが……。
長男ハルキ6歳と、次男ナツキ4歳が曲者なのだ。
祖父母は遠方に住んでいるため、預けることも出来ず、仕事で土日も忙しい夫の代わりに妻が子供たちを連れて打ち合わせに来るのだが、この2人がちょろちょろと母親の周りをうろつき、話し合いどころではない。
もちろん90日ルールというのは、こちらの都合だし、子供を連れて展示場に時間通りに来るだけでも大変そうな花澤夫人のことは責められない。
打合せを小松に任せて、子供を公園に連れて行こうとしたこともあるが、この2人が、母親にべったりであるのと、父親が小柄で優しそうなためか、背が高くて雄々しい篠崎のことを異様に怖がって遊んでくれないのだった。
「女の子なら得意なんだけどなー」
思わず呟くと、渡辺が正面の席から笑った。
「時庭で打ち合わせするなら、俺、相手しますよ?」
「それが……」
スケジュールを見る。やはり天賀谷展示場となっている。
「天賀谷なんだよな」
渡辺は口を窄めて天井を見た。
「リーダーに相談してみてはどうですか?林君とか新谷君を借りればいいんじゃないですか」
その名前を聞いただけで、眼球がわずかに震える。
「……篠崎さん?」
急に表情を無くした篠崎を渡辺が覗き込む。
「あ、ああ。そうだな」
デスクの電話を手に取る。
天賀谷展示場の番号を押した。
(……何も、俺の相手をしてほしいって言ってんじゃないんだし。客の子供の相手をしてほしいってだけなんだから、別に意識する方がおかしいだろ…)
自分に言い聞かせているのに、喉元まで上ってきた心拍で息苦しい。
「はーい、天賀谷、紫雨ー」
やる気のない声で応答する次期マネージャーに舌打ちをしながら、篠崎は言った。
「今日の2時から展示場借りるんだけど、そのとき誰かに子供の相手をしてもらうのは難しいか?」
「はあ。ガキの子守すね?ちょっと待ってくださーい?」
相変わらずの口の悪さに舌打ちしそうになりながら、保留音を待つ。
「……ああ。篠崎さん?」
さんざん待たせて置いてから、紫雨がため息交じりに言った。
「林、今日、忌引きで休みでー、新谷、大事な商談あるもんで抜け出せずー、飯川は連絡取れないんですよー。まあ、俺は空いてますけど。俺、ガキ嫌いなんですけど、いいですかー?」
「……いや、いいわ」
苦手ならまだしも嫌いなら困る。
篠崎はため息をつきながら受話器を置いた。
(……商談、か)
システムを弄り、新谷のページを開く。
最期の受注から3ケ月経っている。今月成績を上げられなければ、半年間のペナルティで、バッター順は一番最後だ。
それでも成績を上げられなければ、強制退場。いわゆるクビだ。
(まあ、その前に紫雨が何とかするとは思うが……)
「……え。するよな……?」
不安になって思わず口に出すと、正面に座った渡辺は首を傾げた。
天賀谷展示場についた。
今日、なんとしても最後まで間取りを詰めて、それを持ち帰り、夫に了承をもらいたい。そのためにはどうしてもあの2人を何とかしなければ。
篠崎は小松にテープレコーダーを預け、議事録は後から取ることにして、今日は子供の相手に徹しようと決めていた。
天賀谷展示場に入ると、事務所には紫雨しかいなかった。
「俺、混ざりますかー?」
口の端を上げて笑っている。
「いや、いーわ」
言うと、
「ええ?遠慮しなくていいのになあ」
と紫雨は笑った。
「じゃあ、気持ちだけ。受け取ってください」
言いながら、何か袋を渡してきた。
「………?」
開くと、その中には、駄菓子と塗り絵、シールブックが入っていた。
「おお……!」
驚いて顔を上げると、紫雨は顔の前でヒラヒラと手を振った。
「俺からじゃないですよ。俺は、篠崎さんが90日経過しようが、どうでもいいので」
笑いながら自席に戻っていく。
「先ほどの電話の際に横で聞いていた新谷が、近くの駄菓子屋で買ってきたんです。遠慮なくどーぞ」
「………」
言いながらオフィスチェアに座ると、紫雨は顔も上げずにパソコンに何かを打ち込み始めた。
「……よろしく伝えてくれ」
篠崎は小さく言うと、それを持ち、展示場に入っていった。
打合せが始まり、しばらくの間は大人しく塗り絵をしていた兄妹だったが、いつの間にかどこかに姿を消してしまった。
いつもならすぐに母親のもとに甘えながら寄ってきて、帰りたいだのお腹が空いただの騒ぎ出し、打ち合わせも中断せざるを得なくなるのだが、寄ってくるどころか走り回る音もしない。
せっかく大人しくどこかで遊んでいるのだから、下手に自分が出ていって、刺激しない方がいいだろうか。
篠崎は展示場の気配に気を配りつつ、打ち合わせに集中するふりをした。
念のため子供部屋にあるテレビのDVDはアニメを再生してあるし、おもちゃも置いてあるため、そこで遊んでくれているといいのだが。
「……それでは、最終的な間取りはこちらとなりますので、ウォークインクローゼットの入り口の向きと、二階のトイレのドアの形状だけご主人様と話し合っていただき、決めていただいてもいいですか?」
「はい、わかりました」
ニコニコと花澤夫人が微笑む。
(……お、終わった……)
小松と篠崎はテーブルの下で拳を付き合わせた。
「あ、では時間に余裕がありましたら、外壁のタイルだけ、見ていただいてもいいですか?」
小松が席を立ち、主寝室に夫人を促す。
「あれ?ハルキとナツキはどこかしら」
夫人がきょろきょろと展示場を見回す。
「大丈夫ですよ、私が探してきます」
篠崎は立ち上がると、主寝室に向かう2人とは逆にある子供部屋の方に歩いていった。
「違うよ、悪の門徒はさ、10人いるんだってば!!」
長男ハルキの声が聞こえてくる。
「この間の放送では3番目の門徒が出てきたの―!!何回言えばわかるの?!」
次男ナツキの声もそれに続く。
「あれ?3番目って、目が6つあるやつ?」
「!!」
その声に篠崎は思わず足を止めた。
「ちーがーう!!それは6番目だって!!」
「俺わかんないなー、絵に描いてよ、絵に」
「しょうがないなあ!!」
「全くもう!!大人なのに何にも知らないんだね!」
「…………」
篠崎は足音を消して、子供部屋に近づいた。
姿が見えないように廊下に張り付き、耳を澄ませる。
「あー、それかあ。それが3番目?顔に痣がある奴ね」
新谷が笑う。
「男なの?」
「はあ?悪の門徒に男も女もあるわけないでしょ!」
ハルキが得意気に言う。
「いてっ。叩くなよ。ダメだよ、叩いたら……」
「だって、わかんなすぎてムカつく!」
6歳の子供にコテンパンにやられている新谷の姿を想像し、思わず笑みが漏れる。
「お兄さん、何歳?」
「俺?24だよ」
(そうか。あいつ、誕生日過ぎたのか)
思わず顎を上げ、天井の廻り縁あたりを眺める。
「結婚してる?」
次男のナツキの言葉に、篠崎はその体勢のまま凍り付いた。
息を潜めて彼の言葉を待つ。
すると、
「するよ。もうすぐ」
その場で膝の力が抜け、思わず壁に縋りついた。
「いつ?」
「いつだろうねー」
新谷の少し困った声が、なぜか耳元で聞こえた気がして篠崎は頭を振った。
「奥さん次第かな。タイミングとかあると思うし。俺より忙しいお医者さんだからさ」
「え、奥さんがお医者さん?お医者さんって男の人だよー?」
ナツキが話に加わろうとするが、ハルキが遮る。
「もう言ったの?プロボウズ」
いろいろ間違っているが、新谷は訂正することなく優しく笑った。
「これからだけど、でももう、言おうって決めたから」
「振られるな!!」
「うん。ふられる!!」
生意気な兄弟がからかう。
「えー?マジか。ひどいなー」
新谷が笑う。
「…………」
篠崎はため息をつくと、足音を立てないようにその場を離れた。
歩きながら、眉間辺りに謎の痛みが走り、人差し指と中指で押す。
指の間から見えるフローリングが滲んで見えた。