コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
トントントントン。
久次は、小気味の良い音で目が覚めた。
いい匂いがする。
これは卵焼きと……味噌汁……?
一瞬、実家にでも帰ってきたのかと錯覚を起こした。
そんなわけない。
大学に入学し家を出て以来、ほとんどあそこには寄り付いていない。
目を開ける。
マンションの自室であることに安堵する。
しかしこの音は?匂いは?
上体を起こす。
「あ、起きた!」
台所から声がした。
「おはよう!クジ先生!」
言いながら彼は慣れた様子で角型フライパンから卵焼きをまな板の上に置いた。
「冷蔵庫、勝手に漁って、調理器具自由に弄った。よかったよな?」
「……………」
立ち上がり、対面型の台所から彼の作品たちを眺める。
「驚いたな……」
ゴマとひじきのおにぎり、豆腐と小松菜の味噌汁。厚焼き玉子に、きんぴらごぼう。
「お前にこんな才能があったなんて……」
言うと彼は、
「うちの母さんは夜勤が多いんだ。だから自然と」
それらを手際よくワンプレートの皿に盛りつけていく。
(……何が自然と、だ。勝手に身につくもんじゃないんだよ、こういうのは)
久次は微笑んだ。
「さ。食べよ食べよ」
瑞野はそう言うと、ダイニングテーブルに食器を並べだした。
箸とグラスと牛乳は久次が用意をして、朝食が完成した。
「ふふ。変な感じ」
瑞野は笑いながら、久次の正面に腰を下ろした。
「……瑞野」
呼ぶと彼は、少し照れくさそうにこちらを見つめた。
その目は少し赤く腫れている。
「……昨夜は、ごめん」
言いながら膝に手を突き頭を下げる。
「いいよ。誘ったのは俺だし……」
瑞野はハハッと笑った。
「俺も心細くなって血迷った。クジ先生なんかに」
「…………」
顔を上げ、目を細める。
「だから、忘れよう!それより」
瑞野は今度はちゃんとこちらを見つめて両手を合わせた。
「巻き込んでごめん!クジ先生!」
……巻き込んで。
………巻き込まれて……。
違う。俺は―――。
「でも嬉しかった!ありがとう!」
瑞野は朝陽に負けない笑顔で言うと、白い両手をもう一度合わせ「いただきます!」と叫んだ。
久次と漣は、改札で目の前を通り過ぎる人を見ていた。
「もう夏休みって感じじゃないな……雰囲気が」
忙しそうに歩くサラリーマンらしき男や、ヒールの音を響かせているOLらしき女を見ながら、漣が呟くと、
「盆を過ぎれば、人々の往来は従来に戻る」
久次が腕時計を見下ろしている。
「何時?」
「10時15分前」
9時45分と言わないのは、10時が集合時間だからだろう。
漣も他の生徒が来ないか出入口を見つめた。
「……誰も来なかったらどうする?」
聞いてみる。すると、
「合唱部として合宿を企画し、有志を募り、10時に集合して、出発した。その事実さえあればいい」
久次はしれっとそう言った。
「じゃあ、もし誰も来なくても……」
「寧ろ面倒くさくなくて良い」
久次はフフフと笑った。
「ちょっとそこのドラックストアで必要なものを買い足してくる。お前、ここにいろよ?」
久次はそう言うと、漣の返事も聞かずに、すぐ隣に見える薬屋に入っていってしまった。
「は――」
漣はため息をつきながら、柱を滑り落ちるようにしてしゃがみ込んだ。
昨夜は、久次の熱い体を思い出して、眠れなかった。
吸われた唇も、刺激された胸の突起も、絡み合う舌も、全部気持ちよすぎて、
泣きながら一人で何度も抜いた。
その匂いと気配を誤魔化すため、咄嗟に作った朝食だったが、彼は意外と喜んでくれ、全部食べてくれた。
ガラス張りのドラックストアの中で、久次が忙しく走り回っているのがわかる。
胸が締め付けられる。
巻き込んでる。
巻き込んでるよな……。
こんなことまでさせて、自分は何がしたいんだろう。
どうしようもないのに。
この地獄に、突破口なんてないのに。
それでも今だけ。
ほんの一瞬でもいいから。
好きな人と一緒にいたい……。
「……あれ、瑞野君」
視線を上げると、目の前には杉本が立っていた。慌てて立ち上がる。
そこには十名ほどの合唱部の生徒たちがいた。
「珍し……参加するの?」
杉本が嫌味ではなく本当に目を見開いている。
「あ、うん」
その中には中嶋の姿もあった。
なぜかこちらを睨んでいる。
「おっと。……みんな、よく来たな……!」
ドラックストアから出てきて、集合した生徒たちの数に明らかにギョッとした顔をした久次を見て、漣はこっそり笑った。
10人も高校生が集まると、新幹線の中はたちまちカオス状態になった。
「久次先生って東北って感じしなーい」
杉本が言うと、瑞野が、
「いや、福島って東北じゃねえだろ」
とほざき、
「いや、東北だから!」
と、ほぼ全員からバッシングを受けている。
(……うるさい)
気圧で聞こえが悪くなってきた耳にも、彼らの笑い声が響き、久次は窓の外の山々を見つめながらため息をついた。
まず瑞野を含めた彼らを福島の倉玉山の麓にある合宿施設に送り届ける。
そうしたら自分は東京へとんぼ返りする。
瑞野の話からすると、母親にいきなりコンタクトを取るのはやめた方がよさそうだ。
それよりも全ての元凶と言える、あの男に連絡を取らなければならない。
法に触れる悪事を働いているのはあちらだ。
ここは毅然とした態度で……。
そのとき、久次の頭に何かが飛んできた。
「あはは。クジ先生、ごめん!」
前の席に座っていた瑞野が振り返る。
「アイスすっごい硬くて、飛んでった」
笑いながら久次の頭で跳ね返ったスプーンを拾っている。
「なんで新幹線のアイスって硬いのかなー?」
隣の席に座った杉本も、彼に新しいスプーンをあげながら笑っている。
座席の間から瑞野の屈託のない笑顔を見る。
こうして見ると、ただの高校生なのに。
どうして彼は一人、こんな可哀相な境遇に立たされているのだろう。
「怒んなよー、クジ先生。おっかないなー」
しかめ面をしている久次を、瑞野が尚もこちらを振り返って笑っている。
「ほら、一口あげるから!あーん」
ふざけながらスプーンに僅かに掬ったアイスをこちらの口元に寄せてくる。
「………」
少々迷ったが、久次はそのアイスを口に入れた。
甘みと冷たさが舌に染みこみ、バニラの香りが鼻から抜けていく。
「………」
自分から手を伸ばしてきたくせに、瑞野の顔が真っ赤に染まった。
その顔に思いがけず昨日のベッドでの艶事を思い出し、反射的に久次は目を逸らした。
「えー?ちょっと何その反応」
覗き見ていた杉本が笑う。
「ちょっとちょっとちょっとちょっと!BLですかあ?」
にわかに騒ぎ出す。
「えー、嘘―ショック」
「でもわかる。久次先生、タチね」
「尊―い!!」
たちまち生徒たちが乗っかる。
真っ赤に染まった瑞野は、その野次に言い返すこともできずに、そっぽを向いてしまった。
久次は生徒たちの野次に呆れながら、シートに身を沈めた。
(時代だな……)
ふっと笑う。
あの頃は、こんなふうに冗談としてでも、周りには受け入れられることはあり得なかった。
軽蔑され、後ろ指をさされ、文字通り石を投げられる毎日だった。
それでも、自分は辛くなかった。
寧ろ誇らしかった。
彼が自分の恋人だと、誰も手を出すんじゃないと、触れ回りたいくらいだった。
でも彼は……。
顔を真っ赤に染めたまま、野次から耳を塞ぎ、窓の外を睨んでいる瑞野を見つめる。
(……彼は、違ったんだろうな)