「新谷君」
和室の広縁から外を見ていた由樹はその声に振り返った。
「今日絶好調じゃない?」
しゃがんで同じく広縁から外に視線を走らせながら、紫雨がこちらを見上げている。
「そうですか?」
「だって、もう2件もアポとってるでしょ。2件目の奥さん、看護師じゃね?」
「あ、それ、俺も思いました」
無表情で由樹が答える。
「金あるじゃん。何のアポ取ったの?」
「完成現場見学会です」
「へえ。現場は?」
「決めてないです」
「俺の現場、今週クリーニング終わるから使えるよ」
「あ、貸してください。助かります」
「あのさ」
紫雨は呆れながら目を細めた。
「心ここにあらずで適当に返答すんのやめてくれない?」
無表情のまま言葉だけ重ねる由樹に、紫雨がため息をつく。
「よくそんなんでアポ取れたな。つーか、あれか。緊張が取れてるから逆にいいのか」
笑いながら視線を外に戻している。
紫外線99%カットする窓ガラスから、日差しだけを受けた紫雨の茶髪が、キラキラと輝いている。
「……こうしてみると、紫雨さんってめっちゃイケメンですね」
「はぁ?」
相変わらず上の空でまた外に視線を戻す由樹を見ながら、紫雨は笑って立ち上がった。
「今日なのね。はいはい。わかったわかった」
びくりと由樹の身体が硬直する。
「今日、言うんだろ?篠崎さんに」
唇を結んだ由樹は、やっとそこで意識を取り戻した。
そうだ。
今日の飲み会で彼に気持ちを伝えると決めていた。
「……ねえ。思ったんだけどさ」
紫雨が少し面白がるように首を傾けながら、少しばかりネクタイを緩めている。
「もし万一、うまくいっちゃったら、彼女どうするの?」
「………」
由樹は停止した後、視線を広縁の幅の大きな板を見つめ、そしてまた視線を戻した。
「うまくいくことはないと思いますし、それに……」
「それに?」
「彼女なら、どんな結果になってもわかってくれると思うので」
「…………」
紫雨の顔から笑みが消える。
(……そうだよな。普通に聞いたら、俺が最低なことを言ってると思うよな)
言葉にするとものすごく自分が下衆なことを言っている気がする。
しかし、彼女は、千晶は……。
「千晶は、俺の彼女である前に、理解者であり、協力者なんです」
「…………」
紫雨はふうっと小さく息をつくと、
「君たちカップルも、案外複雑そうだね。興味ないけど」
と言って、先ほど少し緩めたネクタイを締めた。
「でも俺は、そこまでの理解者がいるなら、そっちにした方がいいと思うけどね」
言いながら背広の襟元を直すように、一度両手でくいと引いた。
慌てて外に視線を戻すと、展示場の前で家族連れが並んでいた。
「順風に篠崎さんに振られて、満帆に彼女と結婚して、んで、頻繁に俺と遊ぼーよ、新谷君」
「……まだそんなこと言ってんですか」
「ははは」
紫雨は笑った。
最近よく笑うようになったと思う。
悪い顔ではない。
由樹も微笑んだ。
「んじゃ、行ってくるね」
言いながら紫雨は玄関に向けて足を踏み出した。
相変わらず足音の聞こえない彼の後ろ姿を見送りながら、由樹は微笑みながら息をついた。
その後の接客で何を話したのかほとんど覚えていない。
だが、気づけば由樹の手にはお客様アンケートが5枚も握られており、由樹の身体はいつの間にか時庭展示場に帰ってきていた。
「大漁だねー、新谷君」
そのアンケート用紙を見ながら渡辺が笑う。
「来年あたり、本当に成績追い越されてるかもしれないなー」
言いながら上着を手に立ち上がっている。
「新谷君、車どうする?」
「あ、何も考えてませんでした」
「置いてったら?送ってあげるよ、行きも帰りも」
由樹はこっそり隣に座る篠崎を盗み見た。
「……あ、帰りは大丈夫です」
「そ?」
渡辺が口を窄めたところで、篠崎は息をつきながらパソコンを閉じた。
「っし。行くか!そろそろ!」
(んぐ……)
途端に心臓が喉元まで上がってくる。
「篠崎さん、車どうします?」
渡辺が聞く。
「あー、置いてく。乗せてって」
「明日の足あります?」
「あるある」
(篠崎さんの明日の足って………?)
由樹が真顔で考え始めたところで、首根っこを掴まれた。
「ほら、行くぞ、主賓」
篠崎の手が襟元を掴んで由樹を立たせた。途端にゾクゾクと体中の細胞が波打つ。
すでに喉元まで上がっていた心臓がドクドクとその場で鼓動を開始する。
(……お母さん。今日俺、心臓止まって死ぬかもしれない。こんな俺を育ててくれてありがとう……)
心の中で手を合わせながら、由樹は篠崎に引きずられ、事務所を出た。
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