あの日、世界に背を向けたはずだった。冷たい夜風が首筋を撫でる。月も見えない深い森の中、朽ちた木にロープをかけ、ただ静かに立っていた。誰にも気づかれず、誰にも見つからないまま、僕は終わろうとしていた。
『これで、いい』
誰も必要としていない、誰も待っていない、そんな世界で生きていく意味なんてもうなかった。あとはただ、目を閉じて――
「……おにいさん、だれ?」
不意に、声がした。
ぴくりと指が震える。首を吊るために木の枝にかけたロープが、風に揺れて軋んだ。振り返ると、そこには場違いなほど無垢な少年が立っていた。
白い肌に、シルバーと少しメッシュの入った綺麗な髪色。整った顔立ちは、まだあどけないのにどこか惹きつけるような目をしていた。
『……君、ここで何してるの?』
「俺んち、どこか分からんくなって……さっきまでままと一緒やったのに、」
少し訛ったその言葉に、胸がきゅ、と締めつけられた。こんな夜に、こんな森の奥で。迷子? それとも捨てられた?
『……不破くん』
「……ふわ?」
『うん。君の名前、今からそう呼ぶね』
少年はきょとんとしたあと、少しだけ笑った。その笑みは、何よりも鮮やかで、ひどく――壊れかけた僕の心を、射抜いた。
『……僕の家、来る?』
そう言うと、不破は小さく頷いた。あまりに自然に、まるでそれが運命だったかのように。
それから、奇妙な同居生活が始まった。
最初は普通の「保護」だった。警察に届けようと考えたこともあった。でも、彼が怯えるように「いやや、もうままのとこ帰りたない」って言った夜、何かが決まった。
『……じゃあ、ここにいればいい。不破君は、僕の家族だよ』
「……晴?」
二人きりのときだけ、不破くんは僕のことをそう呼んだ。その響きがあまりに甘くて、胸の奥に奇妙な幸福感が広がる。
日が経つにつれ、不破くんは僕に懐いた。何も疑わず、まっすぐな目で僕を見て、「晴がいちばんすき」って言った。
そのたびに思った。ああ、これはもう誰にも渡せない。
洗脳なんて言葉は、きっと正確じゃない。ただ、少しずつ、ゆっくりと――不破くんが僕のものになっていく過程だった。
「はるぅ?俺、外でちゃあかんの?」
『ダメだよ。不破くんは僕のだもん』
「……でも、たまにはお外、行きたい」
『……そんなこと言うの? じゃあ、今日はご飯なし、でいいよね』
「っ……や、やだ、ぁ!ごめんなさいっ……!」
泣きそうな顔で縋りついてくる姿に、僕はそっと頭を撫でた。
『いい子。不破くんは僕だけ見てればいいんだからね?』
そう囁くと、安心したように頷いて、胸に顔を埋めてきた。
この子の世界を、僕だけで埋め尽くす。そのためなら、どんなことだってする。
不破くんは、僕のもの。
僕に捕まっちゃって、可哀想。
「晴、見て見て!きょうは上手に切れたで!」
小さな手が、包丁を握ってる。きゅうりを斜めに切っているそれを見て、僕は微笑んだ。
『えらいね、不破くん』
「えへへ……えらい?」
『うん。すごく』
不破くんの顔がぱぁっと明るくなる。まだ幼いその顔が、僕の「好きだ」という言葉ひとつで、簡単に笑顔を浮かべるのが、たまらなく愛しかった。
彼がうちに来てから、もう一年が経っていた。
ずっと僕としか接していない。不破くんの世界は、もう僕しかいない。
最初のうちは「学校に行きたい」「やっぱりままに会いたい」と言って泣いた夜もあった。でも、僕は言い聞かせた。
『ままは、君のことを置いていったんだよ。僕は違う。絶対に君を置いていかない。』
何度も、何度も。
そしてある日、不破くんは言った。
「俺、晴といればしあわせ」
そのとき、僕は思った。
『ああ、壊れてくれた』
それはきっと、人間として言ってはいけない感情だった。でも、幸せだった。
不破くんは、僕のことを「晴」って呼ぶ。外に行きたいとも、誰かに会いたいとも、もう言わなくなった。
僕の言うことだけを聞いて、僕の笑顔だけを求めて、僕だけの世界で生きてる。
そんな彼を、愛おしいと思ってしまった。
――いや、最初から愛していたのかもしれない。
その日、いつもより多く話しかけてきた不破くんが、ふとソファに座って僕を見上げた。
「なあ、晴」
『うん?』
「俺が晴のもんなん、ほんまなん?」
『当たり前でしょ?』
「……じゃあ、ずっと、晴のそばにおってもええ?」
『逆にずっとそばにいないと許さないよ。不破くんは僕の子なんだから』
「晴の、こども……?」
『そう。可愛くて、綺麗で、僕だけの子』
「……ん、じゃあ俺、晴のためにおっきくなる」
『おっきく……?』
不破くんは少し顔を赤くして、「なんでもないっ」と笑った。
その笑顔が、あまりにも罪深かった。
不破くんが12歳になった頃、僕は彼を地下に移した。
元々、研究所で使っていたシェルターを改造した部屋だ。窓がなく、外界から完全に遮断された空間。彼はそれを「新しいおうち」と呼んだ。
『ここなら、誰にも見つからない。不破くんとぼくだけのお家だよ』
「……でも、外、ない」
『外なんて、もう必要ないよ。不破くんには、僕がいるでしょ?』
「うん…」
『不破くんは、僕のこと、好き?』
「……すき、や」
『どれくらい?』
「えっと……晴がおらんと、息できんくらい」
『ふふ、それ、いいね。不破くん、すごくいい子』
「晴……ぎゅーってして……?」
抱きしめると、小さな体が震えた。
『こわいの?』
「ううん、しあわせ、やから……」
その日から、不破くんの“外”は完全に消えた。
カレンダーも、窓も、時間もない。
僕が呼ぶときだけ起きて、食べて、甘えて、眠る。
「晴、すき」
それだけを言う毎日。
僕が望んだ“僕だけの不破くん”は、完璧に完成しつつあった。
小さな手は、いつの間にか大きくなっていた。
不破くんが14歳になった頃、僕の胸の中で泣くことはなくなった代わりに、よく僕の後ろをついてくるようになった。
「俺、晴とお風呂一緒がいい」
『……え?』
「前は一緒に入ってたやん、なんで今はあかんの?」
『それは……不破くん、もう大きくなったから』
「俺はまだ晴の子どもやろ?……あかんの?」
不破くんの瞳が、少し濡れていた。
『ふふ、いいよ、一緒に入ろ?』
僕の拒絶が、彼を不安にさせるなんて。
その事実が、愛しさと同時に、ほんの少しの罪悪感を呼んだ。
でも、不破くんは笑った。
「やっちゃ、晴すき、」
無邪気なその声に、僕の心臓が跳ねた。
風呂の湯気の中で、不破くんは僕の背中にくっついてきた。
「晴の肌、きれいやなぁ……なんか、すべすべやし」
『不破くんの方が綺麗だよ?』
「んー、でも……晴の背中、男のくせに色白すぎ」
『ふふ、それ悪口?』
「ちゃう、褒めとる。晴は綺麗やから……俺が守ったるからっ!」
その言葉に、僕は息を飲んだ。
守られる立場ではない。僕が、守る側でなければいけない。
けれど、不破くんの声がすこし甘くなったその声が、耳に心地よく響く。
まるで、恋人に囁かれるように。
ある夜、彼は僕の布団に潜り込んできた。
「はる、さむい……」
『また? 不破くん、自分のベッド使った方がいいんじゃない?』
「やや、晴のに入りたい。あったかいし、落ち着く」
『いいの?そういうの……』
「なんで?」
『不破くん、男の子でしょ。僕も男だし……』
「それが何?」
真っ直ぐな目で見上げてくる。 その視線が、どこか恋の匂いを纏い始めていた。
『……不破くん』
「なあ、晴。俺、好きやで。そういう意味で」
「晴のこと、他の誰にも取られたくない。俺だけの晴でいて」
『…ふふ、僕もだよ?不破くんのこと世界で一番愛してるもん。』
その夜、僕は不破くんを抱きしめて眠った。
ぎゅっと、自分の胸に収めるように。
彼の息がかかる距離で、ぴったりと重なる身体に、思わず背筋が震える。
『不破くん大きくなったね』
「晴のためやもん」
『え?』
「俺、晴のこと好きやから。晴がいっちゃんすきやから、大人になりたいって思ったんや」
『不破くん、』
「晴と、一緒に寝て、一緒にごはん食べて、一緒に生きていきたい」
それは、告白だった。 まっすぐで、歪んでいて、でもあまりにも純粋な恋。
僕は、彼を拒めなかった。
『……僕は、不破くんの全部が欲しい』
「じゃあ、もらって。俺のぜんぶ」
それから、不破くんとのキスを覚える日々が始まった。
まだ甘い唇を、僕に近づけてきて、頬に、口に、額に。 覚えたばかりの“好き”の形を何度も確かめるように押し当ててくる。本当に可愛らしくて、仕方がない。
「晴、好き。晴、だいすき」
『僕もだよ。不破くん』
「俺、晴のために生きるから。ずっとここにおる。ぜったいに、外なんか行かん」
その言葉に、僕は微笑みしかなかった。
――だって、それが僕の夢だったから。
完全な、支配。 でもそれは、彼の望みでもあった。
地下の部屋の鍵は、彼が16になる頃にはもう意味をなさなかった。
不破くんは、自ら閉じ込められることを望んでいた。
「外なんて、なんもないやん」
「晴とおるのが、一番しあわせやん?」
「俺、ずっとここで生きてたい。晴と一緒に」
『うん、僕もだよ』
この関係が、いつから“恋人”になったのか。 誰にもわからない。
でも、不破くんは――もう僕から、逃げられない。
彼の世界は、僕だけだ。 彼の呼吸も、感情も、欲も、すべて僕に向いている。
『不破くん、愛してるよ』
「晴、もっかい言って、ほしい…」
『愛してる』
「俺も、めっちゃ好き。晴だけが好き」
繋がる指先。 濡れた瞳。 交わした口づけ。
すべてが、歪なまま、あまりにも甘かった。
コメント
1件
世間を知らないままにされたからこそそれが正しくないことも知らず、ただ甲斐田の愛に溺れていくの可哀想すぎる😭 でも自分から閉じ込められることを望んだのは、マジでお互いに愛が重すぎてたまらん😵💫🫶 最初は助けてくれた恩返しかと思ったけど完全に自分のためにやってて本当に疲れてた感出てる甲斐田…💞 最高すぎましたありがとうございます‼️次も待ってます😊