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「住宅の営業なんて、誰にでもできる職業じゃないんですよ?その指標となるのが、6か月以内に3棟という成績なんですよ。それが達成できない営業は向いていないということです』
林がその言葉を聞いたのは偶然だった。
現場周りと、展示場のポップに使う吹き出しカードを買いに出て、帰ってきたとき、偶然換気のために開けた窓から、紫雨の声が聞こえてきた。
「無慈悲?どうしてですか?向いていない仕事を、朝から夜中まで拘束されるこの職種を、売れなくて給料も上がらないのに、続けていく方が俺は残酷だと思いますけどね」
紫雨の声が尚も続く。
『上司の俺から見てあいつは、何が何でも決めてやるという情熱もなければ、他社に負けてたまるかという闘志もない。新谷のように客を幸せにしたいという信念もない。俺や篠崎さんのように奨学金で大学を出て、何が何でも稼いでやるというハングリー精神もない。飯川や若草のようなつまらないプライドさえない。
彼は住宅営業に向いてません』
自分のことを言われているのはすぐに分かった。
マネージャーである彼の言葉に対して誰も相槌を打たないところを見ると、どうやら彼は電話をしているらしい。
(……敬語使ってる。どうせ篠崎さんだろうな)
思いながら展示場脇の砂利道を抜け、長靴についた雪混じりの泥を軽く立水栓で流した。
篠崎は何を言ったのだろう。
「林のペナルティーをどうにかしろよ」
などとアドバイスをしようとしたのか。
事務所のドアを開けた瞬間、紫雨が叫んだ。
「はい、注目~!」
林は彼の話を遮らないようにそっとドアを閉めた。
「今から篠崎さんの電話に出るの禁止」
言うと彼は楽しそうに事務所のメンバーを見回した。
「これ、マネージャー命令な?」
その下から上に嘗め上げるような色っぽい目つきに、自分にだけに送られた視線じゃないのに、体がゾクッと反応した。
(―――この人が俺の恋人だなんて―――)
林は長靴を脱ぎながら、明らかに何か企んでいる紫雨の顔を盗み見た。
(いまだに信じられない……)
林は長靴を下足箱にしまうと、目を合わさないように自分の席に着いた。
「――おお、お疲れ」
隣の席の紫雨がこちらを見つめる。
「お疲れ様です」
言いながら鞄をデスク脇にかけると、紫雨は足を組んでこちらを睨んだ。
ついに言われるだろうか。
林は起動したばかりのパソコンに浮かび上がる赤い文字を横目で見ながら覚悟を決めた。
「……ときに林―――」
(来た……)
ペナルティはこれで3回目だ。そろそろお咎めが来るのはわかっていた。
「お前さ」
「……はい」
緊張しながら膝を閉じて紫雨の方を向いた。
「腹減らない?」
「―――は?」
林は思わず壁時計を見上げた。
「昼にはまだ早いと思いますけど」
「だよな。でも小腹が減った。そうだろ?わかるわかる」
言うと紫雨は胸ポケットからモノグラムの長財布を出した。
「駐車場の脇にあるたこ焼き屋で、そうだな……。6個入りを3つ買ってきて」
「え……」
「はい、ダッシュダッシュ!」
言われて思わず立ち上がると、紫雨から渡されたモノグラムの財布を持って、林は走り出した。
「――――」
今日もペナルティのことについては、紫雨の口からは何もなかった。
(あの人、俺のこと、どうでもいいのかな)
営業マンとしての自分に、上司である紫雨が大して期待してくれていないのはわかっていた。
それでも―――。
(少しくらい気にしてくれても………)
林は歩きながら自分の両頬を叩いた。
(………何を甘えてるんだ、俺は―――)
自分に気合を入れ直すために目を開け放つと、換気扇から白い湯気を放っているたこ焼き屋に向けて、林は走り出した。