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「お母さん、ただいま」
3人が帰宅すると、ゆき が庭で洗濯物を取り込んでいた。それを見た多摩さんは、慌てて「申し訳ありません」と下駄を履いた。
「多摩さんがいないからびっくりしちゃった」
「申し訳ありません、書き置きの1枚でもすれば良かったですね」
「今度からそうして頂戴」
「はい、はい、はい」
多摩さんが代わりにタオルを取り込み始めると、 ゆき は菜月に、「どこに行って来たの?」と微笑んだ。
「御影の」
「え?」
「御影のマンションに忘れ物を取りに行ったの」
ゆき の顔から笑顔が消え、戸惑いの表情が浮かんだ。
「多摩さんとお部屋に行ったの?」
「佐々木さんと行ったの」
「そう、それなら良かったわ」
「うん」
やや強張った面持ちが和らいだ。 ゆき は、醜く荒れ果てたあの部屋に、多摩さんが立ち入らなかった事に感謝した。玄関先で立ち話をしていると引き戸が開いた。湊だった。ノートパソコンを手に顔を上げた湊は、その顔ぶれに一瞬たじろいだ。
「なっ、なに。母さんまで。菜月、なにしてるの」
「お帰りなさい」
「湊さん、お帰りなさい」
「佐々木まで!なにかあったの」
菜月は小声で湊に向き直った。
「御影のマンションに行ってきたの」
「佐々木と?」
「はい、私がお連れしました」
「そう、ありがとう」
「いえ」
そこへ、タオルの山を抱えた多摩さんが顔を出した。
「湊さん、おかえりなさい。私も行きましたよ」
「多摩さんが、御影のマンションへ!?」
「はい、行きましたが」
驚いた湊は菜月の顔を見た。菜月は首を縦に振った。
「多摩さんは、菜月の部屋に入ったの?」
「賢治さまのお車があったんです。なので多摩は冬馬の車で留守番でした」
「そうなの、良かった」
「なにが良かったんですか?御影のお部屋を1度は拝見したかったのに!」
「それはまた今度、ね」
「はい、はい、はい!」
少し膨れっ面した多摩さんの後ろ姿を、湊は安堵の溜め息で見送った。それは、幼かった菜月を我が子のように慈しみ育てて来た多摩さんに、菜月が受けたであろう暴行の痕が残るあの部屋を、決して見せてはならないと思ったからだ。そこで、多摩さんが口にした言葉を思い出した。
「菜月、賢治さんの車がマンションの駐車場にあったの?」
「あった」
「賢治さんは部屋にいたの?」
「いたわ」
「ちょっと来て、佐々木も!」
湊は菜月の手を引くと、廊下を勢いよく進んだ。
「ちょ、ちょっと、どうしたの!」
「賢治さんがマンションにいたんだよね?」
「そうだけど」
「ひとりだった?」
「・・・!」
南天の枝葉が風にそよぎ、赤い実が揺れる離れの和室。湊は左右を確認して襖を閉めた。和室には菜月、佐々木、そしてパソコンを起動する湊の姿があった。
「このまえ、僕は賢治さんになりすましてクレジットカード会社に問い合わせた」
「問い合わせ?クレジットカードがどうしたの?」
「利用明細書の再発行をお願いしたんだ」
「どうして?」
「これだよ」
湊のパソコンには、賢治が運転するアルファードの車載カメラのデータが読み込まれていた。毎週金曜日、18:00になると車はホテルの平面駐車場に入庫する。そのホテルの正面の壁には、”ニューグランドホテル”のロゴが浮き彫りにされていた。
「ニューグランドホテル」
「そうだよ、賢治さんはニューグランドホテルを利用していた」
「なんのために・・なんて決まってるよね」
菜月は自嘲めいた溜め息を漏らした。
「そして、23:00には出庫する。御影のマンションに帰る時間だ」
「金曜日の夜は、いつも遅かった」
「間違いないね」
「うん、先に寝ていて良いって」
湊は、クレジットカードの明細書をテーブルの上に置いた。
「この車載カメラの画像だけだと、ホテルで商工会議所の会合があったと言い逃れする事も出来る」
「それでカードの明細書を?」
「うん」
「菜月、見て?」
「・・・これ」
賢治は毎週金曜日、ニューグランドホテルの客室リザーブを繰り返していた。プライベートでの利用である事は確実だった。後は、賢治がその部屋を誰と利用したかという事だ。
「菜月、マンションには誰がいたの?」
「湊」
「うん」
「いたの」
「いたんだ」
「いたの、如月倫子が」
菜月は携帯電話を湊に差し出した。
「これは?」
「賢治さんと如月倫子が話していたの」
携帯電話には、毎週金曜日に同じホテルの同じ部屋で共に過ごしていると、賢治と如月倫子本人の声が明瞭に録音されていた。
「これで賢治さんが不倫していた事が確定したね」
「あと、これを見て」
菜月が画像フォルダを開くと、ソファーに腰掛けた賢治と長い黒髪の女性が写っていた。
「これが、これが如月倫子」
確かに魅惑的な女性ではある。然し乍ら、醸し出す気配はトグロを巻く蛇、湊は怖気を感じ思わず目を逸らした。けれど負けてはならない、菜月の威厳を取り戻さなければならない。
「如月倫子」
「うん」
「この女が、菜月の全てを壊した女」
菜月の目頭は熱く、一筋の涙が溢れた。
「僕が、僕が菜月を助けるよ」
「うん」
「賢治さんが、如月倫子とホテルの部屋に入る写真を撮るんだ」
「湊、ありがとう」
もう一筋の涙が頬を伝った。
「佐々木」
「はい」
佐々木はアタッシュケースから封筒を取り出し、菜月の前に置いた。菜月が湊の面差しを窺い見、湊は頷き、その中を確認するように促した。
「この女の人」
「四島工業の職員だった吉田美希だよ」
「だった?」
菜月は首を傾げながら、吉田美希の写真を見た。
「四島工業を辞めた」
「辞めた?」
「賢治さんとの不倫が表沙汰になったんだよ」
「そう、なんだ」
この時は、如月倫子が吉田美希に関わった事を伏せて置いた。次に佐々木は、吉田美希に宛てた内容証明郵便のコピーを菜月に手渡した。
「これは、200万円」
「吉田美希さんに請求した、菜月さんに対する慰謝料です」
「佐々木、吉田美希に”さん”は要らないよ」
「はぁ」
湊の眉間には深いシワが寄っていた。
「菜月、これで1人目の復讐が終わったよ」
「復讐、怖い事言うのね」
「そうかな」
「そうだよ」
湊は菜月の頬の涙を拭いながら微笑み、その2人を見守る佐々木の目は優しかった。
カコーン
鹿威しの音が綾野の家の庭園に響き渡る。
ジャリッ
そこには、赤茶の革靴が和室の灯りを苦々しく見ていた。