1回目の絵画教室。
20人ほど集まったメンバーへの紹介が済むと、谷原は久次の脇に丸椅子を置いて、道具の説明を始めた。
「久次先生は、とりあえずデッサンについて学んでから、油絵、水彩、アクリルなど一通りの基礎を、ということでよかったんですよね?」
言われた内容に頷く。
「はい。とりあえず、美術部での小間使いに必要な知識をお願いします」
「はは。健気ですね」
谷原は温厚そうな笑顔で笑うと、紙袋の中から鉛筆を取り出した。
「では一つ一つ説明させていただきます。これがデッサンに使う鉛筆。ユニです。安価で初心者にも使いやすい鉛筆です。
こちらはハイユニ。ユニに比べるとやや高いですが、書きやすく比較的線が濃いですかね。
そしてステッドラー。硬めの書き味で、やや冷たい印象に仕上がります」
「へえ……」
鉛筆にBや2Bなどの硬度以外の種類があるとは知らなかった。
久次はそれを覗き込んだ。
「デッサンで使う鉛筆は基本的にはカッターなどで削ります。芯の部分を長めに残し、先を尖らせたものを何本か準備しておくといいでしょう。削り方はこんな感じです」
谷原が慣れた様子でカッターを使い鉛筆を削っていく。
「すごい……」
思わず呟くと、
「慣れれば簡単ですよ」
谷原は笑った。
「そしてこちらが練りゴムです。柔らかくて自由に形を変えることができるため、いろんな用途に使えます。例えば……」
言いながら谷原は自分が描いた、ビンをモチーフにしたデッサンを持ってきた。
「ハイライトを抜く」
言いながら黒く染めた便の凹凸の光に沿ってソレを滑らせる。
「おお……」
途端に光り始めた瓶に久次は目を丸くした。
「あとは転がして回り込みを明るくする」
谷原は練りゴムを棒状に伸ばし、転がすと、回り込みの部分が明るくなり、一気に立体感が増した。
「奥が深いんですね、デッサンって」
久次は口を開けながら、存在感を増していく瓶を見つめた。
「あとは擦筆、ですかね。細かい部分を擦ってぼかしたり、鉛筆の調子を馴染ませたりするときに使います」
言いながら谷原が瓶の模様にそれを滑らせると、陰影が馴染んでいき、より滑らかな瓶の凹凸が浮かび上がってきた。
「必要に応じて、ガーゼやティッシュも使います」
言いながら広範囲をガーゼで優しく擦ると、ビンの線に一体感が出た。
「最後に、フィキサチーフをスプレーして、完成です」
谷原が白い蓋のスプレー缶を上下する。
「これをかけると、鉛筆の粉が紙に定着するんです」
そう言いながらデッサンから30センチほど離して噴射する。
ケホケホと軽くむせた久次を見下ろして、谷原は笑った。
「吸い込むと有毒なので使うときは外でやりましょう」
道具を片付けるのに時間がかかってしまった。
久次はほとんど生徒が帰ったアトリエを見回し、ため息をついた。
慣れないことは疲れる。
それが、自分がさして好きでもないことにおいては猶更だ。
でもこれで、水曜日と金曜日のデッサン準備くらいはそつなく……
「せんせえ?まだいたの?」
振り返るとそこにはハーフジーンズとTシャツ姿の瑞野が立っていた。
「…………」
一瞬動きを止めてしまう。
そうだった。ここは彼の自宅。
時刻は夜の8時。いて当たり前だ。
「ああ。なかなか後片付けが進まなくて……」
見回すといつの間にか数人残っていたはずのアトリエは空になっていた。
「真面目だなー。たかが臨時顧問になったくらいで」
言いながら瑞野はその作業台の一つに飛び乗ると、片膝を立てた。
「部長、海老沢でしょ?」
美術部の部長の名前を呼び捨てで言う少年に違和感を覚える。
いや、見た目は幼いが彼は3年生。同じ学年か。
しかも3年5組。同じ学年どころかクラスメイトだ。
「翠先生が急に休職になって怒ってた。LANEも返ってこないって」
生徒と個人的に連絡を取る教師はどうかと思うが、美術部という特殊な部活柄、写真というツールが必要なのかもしれない。目をつぶることにする。
「……せんせえ、知ってる?あの二人のカンケイ」
瑞野はフフフと意味深に笑ってこちらを上目遣いで見つめた。
「なんだよ、カンケイって……」
「あの二人、レズなの。有名な話だよ?」
「…………」
自分をやけに攻撃的な目で睨み上げた海老沢の顔を思い出す。
教師と生徒。師匠と弟子。
特に芸術を介したその主従関係は、しばしば恋愛感情に飲まれやすい。
音楽の世界だってそうだ。
声楽だって楽器だって、本気で取り組もうとむき出しの生徒の魂に触れる指導者は、しばしば魅力的に見え、依存し恋焦がれてしまうものだ。
そこに異性も同性も関係ない。
年齢も好みも影響しない。
そうか。
翠先生と海老沢が―――。
事実はわからないが、海老沢が翠先生に恋焦がれていたのはもしかしたら本当かもしれない。
だから、自分に何も説明のないまま、夫との子供のために入院し、部活=海老沢を、久次のような素人に押し付けた翠先生に腹が立ったのだろう。
「……そういうことか」
ふっと力が抜ける。
「あれ?簡単に信じちゃうの?」
瑞野が首を傾げる。
「全部が全部、事実だとは思わないがな……」
言いながらやっと道具を箱に入れると、久次はそれを持ち上げた。
「指導者と生徒はしばしば恋愛関係に陥りやすい。これは一般的によくあることだからな」
「……へえ?」
瑞野がまた挑発的な顔でこちらを見上げてくる。
「先生も?」
「……は?」
その何もかも見透かすような大きな目に、動悸がする。
―――落ち着け。
何も知らないはずだ。
彼は、何も―――。
「先生も合唱部の生徒から恋い慕われてるなーと思ってさ」
瑞野が笑う。
「違うよ、あれは」
久次は内心ほっとしながら笑った。
「俺たちの場合は主従関係じゃない。一緒に一つのものを完成させようという同志だ。ちょっと知識と技術がある俺が先導しているだけのこと。向いている方向は一緒だ」
言うと彼は納得したんだかしていないんだか、僅かに首を傾げながら俯いた。
その手にはまだ火をつけていない煙草が握られている。
「こらこら。仮にも俺は教師だぞ」
呆れながらそれを取り上げると瑞野は、
「はは、つい」
と言いながら笑った。
「――お前」
言うつもりはなかったが、目の前でちらつかせられたからしょうがない。
久次は少し屈んで瑞野と目線を合わせた。
「煙草、やめろ」
「はいはい、わかりましたよ」
瑞野がなげやりに言う。
「冗談じゃない。真面目に、だ」
言った瞳を瑞野が見つめる。
「喉にいいわけないだろ、こんなの」
「……あ、そっち?」
「すごくいい声してるのに。勿体ないぞ」
「あのさぁ、勝手に俺まで同志にしないでくれる?」
「合唱とは関係なく」
「…………」
その形のいい唇が僅かに開く。
唇から視線を下ろす。
細い首。
真ん中にある小さな膨らみ。
思わず手で触れてみる。
「………ッ!なにすんの……!」
瑞野が驚いて身を退く。
しかしもう一つの腕で抱き寄せるように押さえつけて、その喉仏を指で触ってみた。
「……んっ……!」
形を確かめるように指を上下になぞらせると、
「んん……ッ!」
瑞野が華奢な体を震わせる。
「やはり小さいな。高音の原因はこれか……」
「……ちょっと……!」
瑞野が真っ赤な顔でこちらを見上げる。
「……あ」
久次は慌てて手を離した。
「はは。つい」
笑いながら解放すると、
「……生徒に手を出すとか、サイテー!」
瑞野は真っ赤に染まった顔でこちらを睨んだ。
(……手を出す?)
改めて彼を見下ろす。
女より白い肌。
明るい髪色。
大きな目に長い睫毛。
中性的な顔と身体。
―――確かに、変な男が手を出すのもわからないでもない。
久次は目を細めた。
「それとお前、あれもやめろよ」
「あれって?」
「だから例の“暇つぶし”」
「………」
瑞野がこちらを睨む。
「あんな汚い親父たちに聞かせるなら、俺に聞かせろ。お前の声」
「……へ、変態……!!」
瑞野は何を勘違いしたのか、ますます顔を真っ赤に染めると、作業台を飛び降りた。
「そういう意味じゃなくて……」
「クジのくせに!ナメクジ!エロクジ!!」
「はぁ?」
彼はわけのわからない怒り方をしながら、アトリエを後にした。
「―――ナメクジ……?」
久次は鞄と紙袋を手にすると、遠ざかる彼の足音を聞きながらクククと笑った。
アトリエの外で男が一人、気配を殺しながらこちらを見ているのには、気がつかなかった。
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