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漣はアトリエの電気を消し、裏口から出て行く久次の後ろ姿を見送ると、ため息をついた。
(……ああいう人苦手……)
ふうと正面玄関の影の外壁に寄りかかる。
感情のオンオフが普通の人間と逆のような、読めない男。
入れるのと抜くタイミングがそこらの人とずれているような人間。
翠先生と海老沢の話は、デマだった。
しかし、その場ででっち上げた冗談を鼻で笑いあしらうかと思っていた久次は、
『指導者と生徒はしばしば恋愛に流されやすい』
と妙に納得したように頷いた。
『先生もそう?』
漣が思いつきで発した質問に、見てわかるほど感情が振れた。そして、
『先生も合唱部の生徒から恋い慕われてるなーと思ってさ』
続けたこちらの言葉に、ホッとしたように感情が抜けた。
(……あれって……)
漣は顎に軽く手を添えた。
(……もしかして、経験あんのかな)
あの冷めていながらも堅物そうなクジ先生が?
生徒と?
だってまだ若いだろ。
25?26だっけ?
(でも……)
その指を自分の首に滑らせる。
先ほどクリクリと触られた喉仏をなぞる。
(触り方は……エロかったな……)
「こんなとこにいたんだ」
その言葉に驚いて振り返ると、今日の客が立っていた。
「もしかして今夜じゃなかったのかなって不安になっちゃったよ」
男はジャージからハンカチを取り出すと、額の汗を拭った。
「………」
漣は振り返った。
とっくに久次の姿はない。
「……アトリエ、行こ?」
言うと男は嬉しそうに頷いた。
聞いたところによると30代。
介護系で働いていて、夜勤もあるのだという。
「利用者さんに人気あるんだよ、結構。孫みたいでかわいいって」
漣は作業台の上に登りながら、太った身体に童顔の頭が乗っかっている男を見上げた。
「へぇ。確かに可愛い顔してるかもね」
こちとらサービス業だ。客への世辞も忘れない。
「ふふ。漣君に言われるなんて光栄だなぁ……!」
確かに肌艶はよく、色白の顔は年齢不詳だ。
「でも僕は……」
男の太い指がハーフジーンズを履いたまま膝を立てた漣の股間に触れる。
「高齢者よりも男の子の身体が好きかな……」
「……変態」
思わず笑う。
「その言葉も、漣君に言われるなら誉め言葉」
その指に力が入り、漣のモノを掴む。
「……んッ」
「あれ?……もしかして、待ってる間、興奮してくれた?」
顔を寄せた男の生暖かい息が耳にかかる。
「ちょっと硬くなってるよ……」
(……違う)
「ほら。ね……?」
男の手がズボンのボタンを外しチャックを下ろし、まさぐるように入ってくる。
(……違う。これは……)
「嬉しいな……」
「……ッ……!」
それなのに、男のしつこくて粘っこい愛撫に、ソレの硬度が増していく。
「は……」
感情とは裏腹に、熱を含んだ息が漏れる。
「……んッ……!」Tシャツの肩に口を押し付ける。
『……あんな汚い親父たちに聞かせるなら……』
低くて太くて、少しだけ掠れた声が脳裏に蘇る。
『……俺に聞かせろ、お前の声』
「ぁあッ!」
たまらず溢れ出した声に男はニヤリと笑い、連のパンツをジーンズごと剥ぎ取った。
「よかったよ、漣君」
男は前髪を額に貼りつかせながら笑った。
「来月も頼むね」
身体の大きさに似合わない小さなリュックをきつそうに背負うと、男は掃き出し窓から出て行った。
ザッザッザッ。
足音が遠ざかっていく。
「……こちらこそ」
漣はそう囁くと、作業台の上で上体を起こした。痛む身体を無理矢理動かして、パンツとジーンズを履く。
肋骨がうっすらと浮き上がった腹には、男が欲望のままに何度も放出した液体が、一部固まりかけている。
漣は舌打ちをしながらそれをデッサン用のガーゼで雑に拭き、床に投げ捨てた。
手が煙草を探る。
いつも作業台の端に置いておいて、情事の後に一本吸うのが日課となっていた。
邪気は煙を嫌うと、この間偶然つけたテレビ番組、『真夏のホラー特集』で言っていた。
漣にとって喫煙は、浄化だ。
欲望に満ちた部屋も、
欲望を吐き出された体も、
貪られた唇も、
嘗め取られた体も全て、
煙で浄化する儀式だ。
「……あれ?」
しかし探せども探せども、漣の細い指に煙草は触れない。
(そっか。クジ先生に盗られたんだった)
漣は深い溜息をつきながら頭を垂れて後頭部をガリガリと掻きむしった。
「……兄貴?」
その時アトリエ内に低い声が響き渡った。
「楓(かえで)……?」
慌てて立ち上がると、自宅に通じる廊下から、弟が顔を覗かせていた。
(ギリセーフ……)
漣は、パンツとジーンズを履いた下半身を見下ろして胸を撫でおろした。
「……また、煙草?」
楓はこちらを見ている。逆光だから表情は見えないが、暗いアトリエに一人半裸でいる兄に何の疑問も覚えず微笑んでいるのだろう。
「母さんに言うなよ」
「大丈夫。今日夜勤だから」
楓はふふふと笑った。
(……知ってる。夜勤の日を選んでるから)
心の中で毒づきながらも、
「おっし。セーフ!」
両手を広げておどけて見せる。
「……風呂。空いたよ」
振り返った楓の顔が、廊下の照明でやっと見えた。
よかった。いつも通り微笑んでいる。
「ああ、サンキュ」
漣はそこら辺に落ちていたTシャツを拾い上げた。
脳裏に浮かんだ歌を口ずさみながら楓の後に続く。
♪例えば君が傷ついて
「あれ?なんだっけ、その歌」
♪くじけそうになった時は
「ふふ。なんでそこ強調すんの?」
♪かならず僕がそばにいて
「あ、思い出した。”BELIEVE”だ。アタリでしょ」
♪ささえてあげるよ その肩を
「……ちょ、重い!重いって!肩組むな!兄貴!」
二人の笑い声は、暗いアトリエに溶けていった。