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結局――私は高原にアパートの前まで送ってもらってしまった。
車に乗ってからも場所をはっきりと言わない私に、高原は言ったのだ。
「俺が君を襲うとでも思ってるのか?早瀬さんって、思ったよりも自意識過剰なんだな」
からかうように言われて、カチンときた。そのまま、まるで売り言葉に買い言葉のような流れになってしまい、ついアパートの場所を教えてしまったのだ。またも苛々しながら思った。この人といると調子が狂う……。
「今日は、本当に、色々とありがとうございました」
早く帰ろう……。
そう思いながら高原に礼を告げて、私は急いでシートベルトを外した。ドアを開けようとしたが、大事なことを言い忘れるところだったとふと手を止める。私は捻りかけた体を戻して高原に向き直った。
「あの、ですね」
ハンドルに腕をかけてフロントガラスの向こう側を眺めていた高原が、首を回して私を見た。
「何?」
「……今後のことですが」
私は唇を舌で軽く湿らせると、仕事用の改まった口調で早口で言った。
「今日は初回ということもあって私が対応いたしましたが、今後は基本的に、何かあればまずは営業の大宮にご相談いただいた方がよろしいかと思います。何よりその方が話が早いですし、お互いのためでもあるかと思いますので」
ひとまず言うべきことは全部言えたはず――。
そう思っていると、高原が聞き返してきた。
「――お互いのためってどういう意味?」
それはうっかり口を滑らせてしまった部分だった。だから、思った。
やっぱり聞いてきたか――。
私は高原と目を合わせないように顔を伏せて答えた。
「私以外の者が対応した方が、高原さんにとっても色々とやりやすいのではないか、という意味です」
「なぜ?俺は早瀬さんに対応してほしいんだけど」
「それは……」
あなたはいいかもしれないが、私がやりにくいのだ――。
その本音を口に出すのをためらって、私は口ごもった。
「この前親父の所で、大宮さんも言ってたじゃないか。早瀬さんと一緒にサポートするって」
「それはそうなんですが……」
この前そういう話をしたのは確かだ。確かなのだけれど……。
「えぇと、とにかくっ、ご相談は私でなくとも誰でもお受けできますのでそれでお願いしますっ!」
すんなりと頷いてくれない高原に苛立ち、私はつい逆切れ気味な言い方をしてしまった。思えばそれは私の勝手な言い分であって、高原はただ、この前そういう話になったことを素直に受け取っているだけなのだろう。私はすぐさま我に返り、高原の顔色をうかがった。さすがに今のは失礼すぎたと反省する。
「申し訳ありません。大変失礼しました……」
しかし、高原からは私に対する怒りや腹立ちなどは感じられなかった。彼はつかの間沈黙した後、軽い調子で口を開いた。
「それならそれで構わないんだけど……」
高原はそう言うと、おもむろに体の向きを変えた。それからゆっくりと手を伸ばし、私の頬にそっと触れた。
「なっ……に……?」
私はびくりと全身を震わせ、シートに背中を押しつけた。
「今度また、君に食事につき合ってもらうためにはどうすればいい?」
街は思いの外明るく、車の中まで届いた光が高原の姿を浮かび上がらせた。そこに見えた彼の目は、私を真っすぐに捉えている。
例え彼の手から逃げようとしても、車の中ではこれ以上の身動きは取れない。
ひと目につきにくい場所に停車してはいるが、こんなところを誰かに見られたらーー。
私はどくどくとうるさい鼓動を感じながら、声を絞り出した。
「手を、離して下さい……」
高原は私の頬に触れたまま、こう言った。
「そうだな……連絡先を教えてくれたら手を離そうかな」
「……っ!」
その感触に、胸の奥でひときわ強く鼓動が鳴った。それを早く打ち消したくて、私は彼の手を両手で押しのけながら早口で言った。
「わ、分かりました。教えます、教えますからっ。離して下さいっ」
高原は私の訴えにあっさりと手を引くと、くすっと笑った。
「それじゃあ、今ここで携帯出して。でなけりゃ……」
と言いながら、高原は再び私に向かって手を伸ばそうとする。
「わ、分かりましたからっ」
私は気持ちを落ち着かせようと胸を抑え、長々と息を吐き出した。
この人、絶対に面白がってる――。
そう思いながら渋々バッグの中から携帯を取り出す私に、彼は言った。
「貸して」
「なぜ?」
「君がウソの番号を言わないように。俺の番号を入れさせてもらう」
「それなら、あなたの携帯を私に貸してください」
「……分かった。それじゃあ、ここに君の番号を入れて」
私はわざとらしく大きく息をつくと、受け取った高原の携帯に自分の電話番号を打ち込んだ。画面を見せながら、彼に戻す。
「この通り、ちゃんと入れました。確認したいなら、今ここでかけてみればいいわ」
高原は携帯を受け取ると、通話ボタンを押した。私の携帯の着信音が鳴る。その音を聞いて彼はふっと笑った。
「俺の番号、ちゃんと登録しておいてくれよ」
「あなたが私の番号を登録していれば、問題ないのでは?」
嫌味ったらしく言ったのに、高原は可笑しそうに笑う。
「そうだな。それでも着拒なんて真似はしないでくれよな」
「……っ」
私の方はこんなに翻弄されて、感情が激しく揺さぶられてばかりいるのに、どうしてこの人はこんなに普通なのだろう。まるで彼の手の中で踊らされてでもいるようだ。腹立たしい気持ちがふつふつと湧き上がってきて、それを言葉にせずにはいられなくなった。
「……もうっ!」
私は彼に文句をぶつけた。感情が先立ち、高原が大事な取引先の社長令息だということは、私の頭からすっかり吹き飛んでいた。
「いったいなんなの?どうしてそんなに私に構うの?この前とは全然別人じゃない。何を考えているのか、まったく理解できないんですけど!」
私がひととおり文句を言い終えるのを待って、高原はひと呼吸ほどの間を置いてからとても静かな声でこう言った。
「……僥倖だと、思ったんだ」