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「ぎょう、こう……?」
その漢字がすぐには頭に浮かばず、私は困惑しながらおうむ返しにつぶやいた。
高原は少し身をかがめて私に目線を合わせると、言い聞かせるかのようにゆっくりと言った。
「今度こそ、捕まえておきたいと思ったんだ」
「捕まえておきたい?……誰を?」
私は呆然とした声で訊き返した。高原の目が私を見ていると分かってはいたが、そう訊ねずにはいられなかった。
「もちろん君を」
「あり得ない……」
あの飲み会での、私に対する高原の態度は最初から最後まで、本当に最悪だった。生理的に嫌われているのではないかと疑ってしまったほどだ。それなのに、今の彼の言葉は、まるで私を好きだと言っているように聞こえる。しかしそんなことを急に言われても、私には戸惑いしかない。理解に苦しむ。それを素直に受け止められるわけがなかった。
「……馬鹿に、してるの?」
可愛げのない言い方だと十分に承知していたが、それが今の私の正直な気持ちだった。
高原は首を横に振ると、真剣な顔をして言った。
「馬鹿になんかしていない。早瀬さんのことが好きなんだよ」
私はぎゅっと眉根を寄せると、固い声で言った。
「からかわないでください」
「からかってなんかいない」
そう言いながら高原は私の目を見つめたまま手を伸ばし、また私の頬にそっと触れた。
顔を背けようとすればできたのに、私はそうしなかった。その手を心地よく感じてしまったことに動揺する。
「信じてもらえないのは、仕方ないと思っている。あの日、あんな態度を取ってしまった自分のせいだと分かっているから。素直になれなかった自分に、今ものすごく後悔しているんだ。――これからゆっくりでいい。少しずつでいい。俺のことを知ってもらえないか」
「そんなこと、言われても……」
私の心は揺れ動き、拒否の言葉を即座には口にできなかった。
その瞬間を捉えたかのように、高原はすかさず言った。
「でも君は、俺といることが嫌じゃない――顔にはそう書いてある。違うか?」
「そ、そんなわけないでしょ。どうしてそう思うの。仕事で絡まざるを得ないから、ただ我慢して付き合っているだけかもしれないでしょう」
「そうかな?」
高原は私の頬に触れていた手を、顎のラインに沿って滑らせた。その指で私の顎の先をくいっと持ち上げながら、彼は言った。
「本当に俺のことが嫌いなら、もうとっくに逃げていたんじゃないのか。うまい理由なんか、いくらでも適当につけられただろう。この数時間のうち、チャンスはたくさんあったはずだ。でも、君はそうしなかった。つまりそれは、俺をそこまでは嫌っていないってことだろう?現に今だって、どうして俺の手を振り払おうとしないんだ?」
「そ、それは……」
「俺のこと、気になり始めてるんじゃないのか」
「それはあなたにとって、都合のいい解釈でしかないでしょ」
私は反抗的に言いながら、目を逸らした。胸がどきどきしているのは緊張のせいなのか、言い当てられたせいなのか。それとも、高原に気持ちを絡め取られそうな予感のせいなのか。
白状するなら――。
私は高原の言葉を完全には否定できなかった。なぜならこの数時間、彼と一緒にいて、思い当たることが確かにあったからだ。それは息苦しさを伴ってはいたが、恐らくはときめきと呼べそうな感情の波だった。けれど、その感覚があったからと言って、高原に対して恋愛感情を抱いているという証拠にはならないし、すぐに彼の気持ちを受け入れられるわけでもない。
高原がくすっと笑った。
街は明るいとは言っても車の中だ。彼の細かい表情まではっきりと見えたわけではなかったが、そこに柔らかな空気を感じて私はどきりとした。
「とりあえず、今日はここまでにしておくよ」
「今日はって……」
「さっき言った通り、俺のことをゆっくり知ってほしいから、今は急がない。今は、ね。――あぁ、言い忘れる所だった。仕事は仕事として、これからよろしくな」
「あ……えぇ……はい……」
高原に翻弄されて、頭の動きが鈍っているのが分かる。ぼんやりしていると、からかうように高原が言った。
「帰らないのなら、このままどこかに連れて行くけど、いいのか?」
「……っ!」
「俺はそれでもいいけど。その方がじっくりゆっくり口説けそうだし」
笑いを含んだ声でそう言われて、私の顔はカッと熱くなった。
「か、帰るわよ!あ、ありがと!」
私はバタバタと車を降りようとして、高原を振り返った。
「あなたも言った通り、仕事は仕事ですから!そこはよろしくっ」
「分かってるよ。だけど個人的にも連絡するから、その時はちゃんと何かしらの反応はしてくれよ。……ね、佳奈ちゃん」
「え……?」
下の名前を「ちゃん」付けで呼ばれて、私は戸惑った。
その隙に高原はさっさと車を降りて、助手席側のドアを開ける。
「お疲れさま。ゆっくり休みな」
優しい声音にどきりとする。
「え、えぇ……」
私はその場にしばらく立ったまま、車に乗り込む高原の姿を目で追っていた。
そんな私に気がついた彼は軽く片手を上げると、車を発進させる。
私は彼の車が交差点の角を曲がり切るまで見送っていた。
高原からのメッセージが届いたのは、その夜、日付が変わる少し前だった。
―― 今日は付き合ってくれてありがとう。また誘う。
本当にメッセージを送ってくるとは……。
心のどこかで、今夜のことは彼の冗談か気まぐれに違いないと思っていた。けれど、彼の柔らかな声が、微笑みが、手の感触が、私の五感にこびりついている。気持ちは揺れていて、どうしたいのか、どうしたらいいのか迷っている。だから、返信も簡単にはできないと思った。悩んだ結果、私は短い一文を返すにとどめた。
―― 今日はありがとうございました。