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カコーン
鹿威しが響く座敷には、黒縁眼鏡の竹村誠一が正座していた。その隣には、両手で抱えるには少し難しい大きさの、段ボール箱が積み重なっていた。
「はいはいはい、どうぞ」
白髪混じりの白い割烹着、着物姿の高齢の女性が、座敷テーブルに茶托と湯気が上がる緑茶、黒光りするこし餡の羊羹を置いた。
「ありがとうございます、頂きます」
竹村誠一は、手を合わせ爪楊枝を摘むと羊羹に刺した。スッと通る質感に、唾が出た。
「お名前はなんて仰いましたかね?」
「竹村誠一です」
「あらあら、まぁまぁ。ごめんなさいね、忘れっぽくて」
「いえ」
朱塗りの盆を抱えた多摩さんは、竹村誠一が 湊 の友人だと聞き、興味津々の様子だった。なんせ 湊 は仕事一筋で、友人の”ゆ”の字も出て来ない。なんなら、菜月に心を奪われている 湊 に浮いた話はひとつもなく、”女性の友人”が訪ねて来た事もなかった。
「どうなさいました?」
あまりにも、多摩さんの視線が頬に痛い竹村誠一は、愛想笑いでその顔を覗き込んだ。
「いえいえ、 湊 さんのお友だちがいらっしゃるなんて珍しくて」
「はぁ」
「ごめんなさいねぇ」
「いえ」
そこへ、郷士と ゆき が顔を出した。
「多摩さん、お茶をくれんか」
「はいはいはい」
多摩さんは、すっと立ち上がると機敏な動きで台所へと向かった。かちゃかちゃと湯呑みを準備する音が聞こえて来る。座敷テーブルに郷士と ゆき が座ると、竹村誠一は太ももに手を置き、深々とお辞儀をした。
「いやいや、そんな畏まらんでも」
「そうですよ、お顔を上げて下さい、ね?」
「はい」
竹村誠一は警察手帳を取り出すと、 湊 とは大学時代からの友人で、今回は引越しの手伝いに駆り出されたのだと話した。ふと見ると、 ゆき の表情が硬い。なにかある、と察した竹村誠一は、菜月がドメスティックバイオレンスを受けていたという事実を伏せた。ゆき から安堵の息が漏れた。
(やはり、父親には隠しているのか)
郷士は辺りを見回して、菜月と 湊 の姿がない事を訝しがった。
「竹村さん、2人はどうしたのかな」
「みな・・綾野くんと菜月さんは細々とした物を運び出すと言ってマンションに残られました」
「そうなのね、竹村さんにこんな大きな荷物を任せて、 湊 はなにをしているのかしら!もう!」
竹村誠一は腕時計を見た。逆算すれば、例え病院が混み合っていても帰宅の途についている頃だろう。
「少し、手間取っておられましたから」
「そうなの?」
「はい」
しばらくするとガレージで車のドアがバタン、バタンと閉まる音がした。玉砂利を踏み締める大股の足音と、それに続いてパンプスの音が響く。玄関の引き戸が開き、多摩さんのスリッパがそれを出迎えた。
「あれ!?多摩さん!?大丈夫なの!?」
「はいはいはい」
「腰は!?ぎっくり腰じゃないの!?」
「はいはいはい」
「違うの!?」
「ただいま」の挨拶よりも先に、菜月の驚いた声がした。菜月は、多摩さんが腰を痛めたので、綾野の家に戻る事を許されたのだと、 湊 から聞いていた。それは嘘も方便、菜月を実家に帰そうとしない賢治を納得させる為、皆で示し合わせた虚言だった。
「賢治くんにも困ったものだ」
菜月と ゆき の顔色が変わった。
「いくら、菜月が可愛いからと言って、実家に出入りさせないなんてなぁ? ゆき 、そう思わんか?」
「そうですね、独り占めするなんてねぇ、菜月さん?」
「う、うん。賢治さん、まだちょっと綾野の家に慣れていないみたいで、顔を出すのが照れ臭いんだって」
郷士は腕組みをすると呆れた面持ちになった。
「会社は母屋の隣だろう、なにを気兼ねをしているんだろうな?」
「本当ですねぇ、賢治さまは恥ずかしがり屋さんなんですねぇ」
「その、”さま”がいかんのではないか?」
「あらあらあら」
事実を知らない、郷士と多摩さんは朗らかに笑った。菜月は、いつまでこの事を誤魔化せるのだろうか、心臓に疾患を抱えている父親にどのタイミングで賢治の不倫行為を打ち明けるべきかと思い悩んだ。
「そうだ、菜月」
郷士に不意に声を掛けられ、菜月は身構えた。
「な、なに?お父さん」
「おまえ、病院に通っていると聞いたが、身体は大丈夫なのか?」
「病院?」
「これだ、昨夜は薬を飲まなくても眠れたのか?」
座敷テーブルに、薬袋が置かれた。菜月は首を傾げた。白い薬袋には確かに、綾野菜月と書かれ、総合病院名が印刷されていた。然し乍ら、菜月には身に覚えがなかった。手渡された薬袋を手に取った菜月はしばらく考え込んだ。
「あっ!」
それは結婚前、風邪を引いた時に処方された薬で、「具合が良くなったから」と、薬を全て飲み終える前に止めた記憶があった。
「どうしてこんな物が」
「あらあらあら、薬の戸棚にありましたよ」
「そうなの?」
この薬袋は、数日前に多摩さんが戸棚の整理をしていた時に出て来た物だった。それを聞いた 湊 は、 ゆき に「菜月が病気だって、父さんに伝えたら慌てるんじゃないかな?」と相談してみた。
「それはいいわね!」
「総合病院だから、受診科も分からないよ」
丁度良い具合に処方された日付は入っていなかった。案の定、慌てていた賢治は、菜月が ゆき に付き添われて心療内科を受診したものだと思い込んだ。そこで、心身共に具合の悪い、菜月を綾野の家に帰す事を承諾せざるを得なかった。
「多摩さん、ありがとう」
「なにがですか?」
「なんでもないよ」
湊 は多摩さんの好きな最中の箱を手渡し、微笑んだ。そして、竹村誠一を玄関先まで送り握手を交わした。
「竹村、助かった」
「いや、湊 の頼みだ大した事じゃない」
「菜月の為じゃないの?」
「ば、馬鹿言うなよ!」
湊 は少しばかり寂しげな顔をした。
「・・・・おまえなら、良いかもな」
「なんの事だ?」
「なんでもない」
竹村誠一の逞しい背中を見送る、湊 の瞳は寂しげだった。こんなに近くにいるのに手が届かない菜月、ならばせめて信頼できる人物に託したいと願った。座敷に戻るとそこに菜月の姿はなかった。
「母さん、菜月は?」
「菜月さんなら、疲れたからお部屋で休むって言ってたわ」
「ありがとう」
菜月の部屋は廊下の突き当たりの和室だ。あのクリスマスの夜、最後の口付けを交わした部屋だ。竹林の影が障子に浮かび、ザワザワと笹の葉が掠れた音を立てている。
「菜月?入るよ?」
襖を開けると菜月は布団で眠っていた。青白い頬、艶をなくした髪を撫でると、菜月の瞼が薄らと開いた。
「湊 、どうしたの?」
「疲れた?」
「うん、でも、すごくホッとしてる。息が出来る感じ」
「頑張ったね」
「湊 がいたからよ」
「僕はなにもしていないよ」
菜月は布団からゆっくりと手を伸ばすと 湊 の手を握った。
「湊が 守ってくれたから、私、ここに帰って来れたのよ」
湊 の目頭が熱くなり、一粒の涙が溢れた。
「泣いてるの?」
「菜月が無事で良かった」
菜月の手が温かな湊の頬を撫で、湊はその手のひらに優しく口付けた。
「菜月が無事で良かった」
「うん」
「良かった」
笹の葉がザワザワと音を立てた。