黒いスーツを着た、上背のある男性が、綾野の家の引き戸に手を掛けた。その音に気付いた家政婦の多摩さんは、白い割烹着で手を拭きながら迎え出た。そこには、細いフレームの銀縁眼鏡を掛けた背中が、三和土に黒い革靴を揃えていた。
「あらあらあら、あんたかいね」
「婆ちゃん」
「なに、今日は母屋に用事なんか?」
「あぁ、湊さんに呼ばれとるんや」
「そうか、そうか」
「湊さんは?」
多摩さんは「湊さんなら、奥の和室にいるよ」と言った。ギシギシと縁側を進む。青々とした芝生が広がる庭園には、石楠花の花が見事に咲き誇っていた。いつ来ても、見事なものだと見惚れてしまう。と、そこで湊から声を掛けられた。和室に通され、2人は真向かいに正座した。
「佐々木」
「湊さん、お待たせしました」
「いや、急がせてすまない」
「いえ、今日はどうなさいましたか?」
湊は押し入れからゴミ袋を引き摺り出すと、スーツや白い小箱を取り出し、佐々木の前に広げて見せた。
「今日は顧問弁護士ではなく、一弁護士として佐々木に頼みたい事がある」
「それは、どういう意味でしょうか?」
「綾野住宅株式会社ではなく、僕からの依頼だ」
「湊さん、個人の」
「うん」
家政婦の多摩さんの孫である佐々木冬馬は、綾野住宅株式会社の顧問弁護士だ。身内の恥を外部に晒す事を避けたい湊は、賢治の不倫行為について佐々木に相談する事にした。
「これは、なんでしょうか」
佐々木は、白檀の香りが匂い立つ、スーツジャケットとカルバンクラインのネクタイを前に、顔を顰めた。次に湊は、白い小箱を開け黒い口紅を見せ、如月倫子の名刺や同窓会の往復はがきの片割れを畳の上に並べた。
「これは、いったい」
「名刺を見てくれ」
「はい」
淡いピンクの名刺にも、毒々しい淫靡な香りが染み付いていた。
「きさらぎ広告代理店」
「そう」
「香林坊ビルの所有者ですね」
如月倫子の夫は、金沢市の一等地に10階建のビルを所有していた。1階はテナントとして貸し出し、2階オフィスより上階は分譲マンションだった。
「この、如月倫子さまがなにか?」
「如月倫子に”さま”は要らないよ、如月倫子は賢治さんの不倫相手だ」
「・・・・え、不倫相手、ですか?」
「そう。賢治さんは不倫をしていると僕は思っている」
佐々木は目の前に広げられた証拠の品々を前に呆然とした。これまで佐々木は、綾野住宅株式会社の顧問弁護士として社長である賢治に尽くして来たが、そんな素振りは微塵も感じられなかった。
「まさか、そんな」
「それから、これを見てくれ」
湊はスーツの胸ポケットから封筒を取り出した。中には、若い女性の写真が入っていた。それを受け取った佐々木は、眼鏡のつるを上下させた。
「この女性が、如月倫子ですか?」
「いや、違う」
「違う?」
湊は、次にSDカードを手渡した。
「これは、賢治さんの車の車載カメラのSDカードなんだ」
「はい」
「ここに、その女性が写っていた」
「はい」
「際どい画像だから、不倫の証拠にはなるよね?」
「はい、拝見しないと断言はできませんが、証拠になると思われます」
そこで大きな溜め息が漏れた。
「どうなさいましたか?」
湊は、如月倫子が菜月のマンションを訪ねて来た事を佐々木に話した。
「ご自宅に!」
「そう、怖いよね。菜月には困っちゃうよ」
「それで、菜月さんは今もマンションに?」
「いや、一昨日、うちに帰って来た」
「そうですか」
佐々木は安堵の息を漏らした。然し乍らそれは、驚きの声へと変わった。
「菜月は、この女性は如月倫子じゃないと言った」
「どう言うことですか?」
「不倫相手が2人いるって事だよ」
佐々木は唾を飲み込んだ。
「ふた、りですか」
「そう、2人いるんだ」
「信じられません」
「僕も信じられなかったよ。生真面目そうな人だから、迂闊だった」
「それで、菜月さんはどうなさるおつもりでしょうか?」
「離婚を希望している」
「協議離婚、ですか」
湊は佐々木ににじり寄った。
「このSDカードに写っている女は、四島工業の社員だ」
「どうしてそれを」
「四島工業の、制服を着ている」
「制服を、それは浅はかでしたね」
「その女を調べて欲しい」
「かしこまりました」
「あと」
湊は、菜月と賢治の離婚は協議離婚だが裁判所に持ち込むつもりはないと伝えた。この狭い業界、どこから噂話が立つか分からない。綾野住宅株式会社の(幸せであたたかな家庭)というキャッチコピーに傷が付かないよう、出来る限り穏便に事を済ませたかった。
「それでは」
「うん、公証役場での公正証書作成で終わらせたい」
「はい、ではそのように手続き致します」
湊は、証拠品の数々を風呂敷で包み始めた。ふと、気付いた佐々木は湊の顔を覗き込んだ。
「湊さん」
「なんだい?」
「その四島工業の女性社員は承りましたが、如月倫子はどうなさるおつもりですか?調べなくても宜しいのですか?」
ふっ、と口角を上げた湊は、風呂敷をキュッと縛った。
「如月倫子は、僕たちが探す」
「たち、とは菜月さんと、という事ですか?」
「そうだよ」
「大丈夫でしょうか?」
「見つけた後は、佐々木に任せる」
「かしこまりました」
風呂敷包みを手渡した時、佐々木の目が湊の背後で留まった。
「それ」
見つめる先には、錆びた丸いクッキーの缶があった。
「あぁ、それは郷士さまが出張の折に買って来て下さったお土産ですね」
「そうだよ、懐かしいだろ」
「懐かしいですね」
郷士は、家政婦の多摩さんと一緒に綾野の家に出入りしていた幼い佐々木にも、我が子同然分け隔てなく接していた。
はらり
1枚の紙が畳の縁に落ちた。
「あっ!見ちゃ駄目!」
佐々木が手にした、キャラクターが印刷された便箋には、鉛筆書きの幼い願い事が綴られていた。
なつきとけっこんできますように
みなとのお嫁さんになれますように
「可愛らしいですね」
「だから、見ちゃ駄目だって言ったじゃないか」
湊は顔を赤らめて、それを錆びた缶の中に仕舞った。すると佐々木が真剣な面差しになり、湊へと向き直った。
「湊さん」
「なに」
「”民法734条1項ただし書き”はご存知ですか?」
湊の顔色が変わった。
「養子と養方の傍系血族との間ではこの限りではない」
「それは」
「湊さんと菜月さんのように、お互いが両親の連れ子。血縁関係がなければ婚姻関係を結ぶ事が出来ます」
「佐々木」
佐々木は、風呂敷包みを脇に置き、太ももに両手を突いて深々とお辞儀をした。
「それだけをお伝えしておきます」
カコーン
鹿威しの深い音色が離れの座敷に響いた
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