コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
ーーーーーーーーーーーーー
「やばっ」
昔を思い出すような夢は、あの頃より少し太くなった由樹の声でかき消された。
心地の良い体温が自分から離れていく。
千晶はその温度を惜しむように、彼が寝ていたところに身体を移しながら、由樹を見上げた。
「ごめん、アラーム、掛けとけばよかったね」
言うと、すでに下着を身に着けた彼は、こちらを振り返った。
「いや、千晶は悪くないよ。日曜日なんだから、ゆっくり寝てな?」
言いながらも慌ててクローゼットを開ける。そこには彼用にワイシャツが数着とネクタイが数本掛けてある。
その中の初夏の雲のような淡い水色のシャツを選ぶと、彼は腕を通した。
数ヶ月前まで、作業着のチャックを上げ、ホックを留めていた彼は、すっかり慣れた様子で上から順にボタンを留めていく。
ネクタイも鏡を見ながら器用に巻いていく。
あっという間に目の前には、ハウスメーカーの営業マンが出来上がった。
「じゃ、行ってくるね、千晶」
しかし振り返ったその顔には、あの海岸で見たあどけなさが、そのまま残っていた。
「今日は?来ないの?」
毛布を手繰り寄せながら聞く。
「うん。今日も遅いと思うから……」
由樹は少し困ったような切ないような複雑な顔をした。
「……あの上司と、また特訓?」
「うん、まあ」
由樹は少し決まり悪そうに頷くと、ビジネスバックを持ち上げた。
「あれ?リュックは?」
彼が学生時代から愛用していたリュックを思いだしながら千晶は聞いた。つい最近まで背負っていたはずだ。
「あ、あれ。ちょっとダサいかなって。バッグ買ったんだ」
由樹は言うと少し誇らしげにその黒革のバッグを目線まで上げて見せた。
「じゃ。ありがとうね!千晶!」
彼は、何も身に着けずに、毛布で中途半端に覆っただけの千晶に、笑顔で手を振った。
シーツに透ける乳房にも、毛布から覗く太股にも目を向けずに。
ドアが閉まると、日曜日の朝陽が差す部屋は一気に静かになった。
「“ありがとう“ってさ」
その空間に千晶が呟く。
「……何に対して?」
昨夜、ドアを開けるなり、千晶を抱きしめ、そのままベッドへ押し倒した由樹を思いだす。
夕ご飯を作ってあげたわけでもない。
お風呂に入れてあげたわけでもない。
夜通し話を聞いてあげたわけでもないし、
DVD観賞に付き合ってあげたわけでもない。
「……私たち、セックスしか、してないじゃない…」
千晶はゴロンと枕に頭を倒し仰向けになった。
愛のあるセックスとも、欲望溢れるセックスとも程遠い。
ただ自分が、女を抱けるのか確認するだけのセックス。
だから、“ありがとう”なのだ。
“確かめさせてくれて、ありがとう”。
それはイコールで、自分が女とデキるのか確かめなきゃいけない理由があるということだ。
「自覚あんのかなー。あの子」
それでもいい。
彼が自分を求めるうちは。
そして……。
彼が誰かに求められないうちは……。
「似合ってたのになー。あのリュック」
言ってからふいに込み上げそうになった何かを封じるように、千晶は毛布を引き上げると、頭から被った。
由樹は襟元に指を入れた。
「いててて」
新しく糊の効いたワイシャツは、肌の弱い由樹にとってはものすごく痛い。
「しまった。これ、新品だった」
赤信号で停まったタイミングでバックミラーを動かし自分の首を映す。
やはり。擦れて赤くなっている。
ため息をつきながら前方を見た。
様々な色。様々な車種。
車を買った人たちは何が決め手となって自分の車を選んだのだろう。
そしてこの人たちの住んでいる家は、どうやって決めたのだろう。
今日も客に相手にされない一日が始まると思うとうんざりし、由樹はため息をついた。
車から降りると、スーツの上着を脱いだ篠崎が外の物置小屋から脚立を持ち出すところだった。
(……うわ…)
グレーのストライプのシャツの上からでもわかる肩甲骨と肩の筋肉が、数時間前に彼女を抱いたはずの由樹の体を撃ち抜く。
(……く、くそ。だめか…)
予防線を張ってきたはずだったのに。
簡単に突破されてしまった自分に軽く失望しながら、篠崎に駆け寄る。
「おはようございます。俺、持ちます」
言うと、篠崎は振り返った。
「おお、サンキュ」
言いながらLED電球を渡してくる。
「あ、脚立を持ちますよ」
慌てて言うが、
「いいって。お前、力無さそうだから。ぶつけて展示場に傷でもつけられたら困る」
笑いながら正面玄関に回り込んでいく。
由樹は電球2つを両手で持ちながら、篠崎についていった。
電球が切れたのは洗面所の前の廊下だった。
そこに脚立をセットし、篠崎が上りながら、ダウンライトのカバーを外し、中から電球を取り出す。
新しいものをセットし、「よし」というと彼は高い位置から由樹を見下ろした。
「昨日はちゃんと眠れたか?」
一瞬ドキリとするが、まあ、時間こそ遅かったが眠れたには眠れた。
(千晶のおかげで、夢も見なかったな)
朝方に見た悪夢のことなどすっかり忘れ、由樹はスッキリした顔で頷いた。
「それはよかった。今日もしっかりアプローチしろよ!」
言いながら篠崎は脚立を降りかけて、そこで静止した。
「…………?」
古い電球を受け取ろうと手を伸ばした由樹を見下ろし、にやりと笑うと、彼はフローリングに降りた。
そして2つの電球で由樹の両手を塞ぐと、自分の手は由樹のネクタイの玉を引っ張った
「!何を……?」
そのまま襟をぐいと引かれる。
「……お前も隅に置けねえな」
その首元を見られる。
「あ、違うんですよ。今日、新品のワイシャツを着てしまって。すぐ赤くなるんです」
別に弁明する必要ないのに、由樹は慌てて答えた。
「おい。大人を見くびるなよ。擦れた赤みと吸われた赤みの違いくらい分かるわ」
言いながらそのまま首根っこを摑まえると、洗面所の鏡に突き出される。
「……あ」
擦れてできた赤い擦り傷の下に、確かに明らかな内出血が見えた。
(……いつもはキスマークなんてつけないのに)
今朝の何か言いたそうだった千晶の顔を思いだしながら首を捻る。
「ま、順調なら何より」
篠崎が顔を寄せて鏡の中の由樹に向かって笑う。
「でもそれじゃだめだな。営業マンとしては」
言いながら洗面所のクロークの上部を開ける。
由樹の背丈では見えないところで、何かを弄っている。
「ほら。これ塗っとけよ」
渡されたのは、コンシーラーだった。
「これって……?」
「ウォータープルーフだから、ワイシャツにつきにくいぞ。安心して使え」
言いながらわざわざキャップまで開けてくれる。
「あ、ありがとうございます」
篠崎はフッと笑って由樹の肩を軽くたたくと、事務所に行ってしまった。
渡された物を手にしながら、篠崎がこれを持っている意味を考え、ため息をついた。
(そりゃあ。相手がいないわけ、ないよなあ…)
鏡の中の落胆した自分の顔を見て、さらに落胆しながら、由樹はコンシーラーを首元に塗り付けた。