待ち合わせ場所であるスーパーの第二駐車場にキャデラックを停めた紫雨は、由樹が隣に車を停めると大あくびをしながら助手席に乗り込んできた。
「おはようございます!俺の車で行きます?」
腹立たし気に助手席のシートを後方に滑らせると、紫雨はシートベルトをはめながら言った。
「駐車スペース2台しかないの。もし万一、奥さんもいたら、停められないから。路駐するなら小さい車の方が良いでしょ」
言いながら指で進行方向を示す。
由樹は慌ててギアをドライブに入れ、走り出した。
「てかさー、君、行ってどうすんのよ。奥さんがいてもいなくても、君にできることってあんのー?」
紫雨は他人の車だというのに、インパネに足をドカッと置いて両手を頭の後ろに組み身体を反らせた。
「俺が君に言いたかったのはそこじゃないんだって。君が告白して、篠崎さんが君と恋愛できるか、それだけを君が受け止めればいいって言ってんだよ。そんな無駄に外堀かためてどうすんのさ。
美智さんは、もう帰ってきませんから、自分と付き合ってくださいとか、下衆な攻め方するの?君は。ちょっと幻滅だなー」
「そんなつもりは……」
由樹はハンドルを握りしめながら、助手席からの攻撃に耐える。
「人の傷を抉ってさ。趣味悪いよ、新谷君。君さ、自分がストレートに振られるの怖いからって、そういうふうに、自分のダメージ少ないようなところから攻めるのどうかと思うよ」
由樹は、それでもなんだかんだ道案内をしてくれる紫雨の白い手を見ながら、押し黙った。
(そうなのかな。これって、俺の逃げなのか?)
「篠崎さんだって馬鹿じゃない。調べようと思えば調べられるんだよ。美智さんがどうなったかなんて簡単に。それをあえて触れずにいるかもしれないってのに、君が探っていい理由なんて何もないと思うけどね」
「……でも」
「でも?」
「それでも俺は、篠崎さんに前に進んでほしいんです」
「…………」
「俺は別に嫌われてもいいので」
「…………」
「そこの家。シルバーのハイブリットカーが停まってるでしょ。そこ」
紫雨が口を開きながら、シートベルトを外した。
由樹が慌ててもう一つ空いている駐車スペースに車を停めると、紫雨はフウと息をついた。
「新谷君。これだけは覚えておいた方がいいよ。一旦、立ち止まってしまった人間が、前に進み出すタイミングってのは、難しいもんだ。そしてそれは、他人が決めることじゃないんだよ」
「…………」
紫雨は無表情でそう言うと、さっさと車から降りて、テラコッタタイルで覆われた外階段を上がり始めた。
紫雨が玄関のベルを鳴らすと、ほとんど間髪を開けずに家主がドアを開けた。
(この人が、美智さんに暴力を振るっていた夫…?)
眼鏡の向こうの異様に細い目が、神経質そうに紫雨と由樹の間を素早く往復する。
「門倉さん。ご無沙汰しております。今日は後輩も勉強のために同席させていただきます」
紫雨が言うと、彼は小刻みに頷きながら、
「ええどうぞ。紫雨さんもお元気そうで何よりです」
と口の端だけで笑った。
「奥様は?」
紫雨がわざとらしく、家の中を見回す。
「ああ、もう出てます。彼女は私より早くに出るんでね」
門倉の表情からはそれが本当とも嘘ともわからなかった。
「よかった。あのときは、びっくりしましたよ。門倉さんが展示場に来られた時は」
言いながら、紫雨が靴を脱いで框に上がる。
「その節はお騒がせしました。何、ちょっとした夫婦喧嘩でして」
言いながら門倉は腕時計に視線を落とした。
「申し訳ありませんが、これから仕事なもんでね。手短にお願いしてもいいですか?」
「わかりました」
紫雨がホールを進む。
由樹は続いて靴を脱ぎながら、素早く目を走らせた。
夏なので、コート掛けには何もかかっていない。
傘立てには、ビニール傘が3本。
靴はサンダル以外1足も出ていない。
(これじゃ、わかんないな…)
由樹は何とか妻である美智の気配か、あるいは男の一人暮らしの空気かの、いずれかを感じ取ろうと思ったが、どちらとも言いきれないものばかりだった。
「床暖房の制御パネルと、換気システムと、太陽光パネルのディスプレイだけ見たら、帰りますから」
一般的な点検の項目を上げながら、紫雨が階段下にある床暖房のパネルを開けた。
少し覗き込むようにしてリビングを見る。
品の良い薄ピンク色のバルーンカーテンが掛かっている。
夏の明るい日差しが入る、綺麗に片付いた部屋だ。
(……やばい。本当にわかんない)
家さえ見れば、男の一人暮らしか、それとも妻が管理し片付けている家か、わかると思ったが。
(……どうにかして聞きださなきゃ……)
「あ、あと」
パネルを見ていた紫雨が何でもないようなことのように言った。
「2階の南側の窓を1つ、点検させていただきたいです」
急かすように紫雨と由樹の靴をそろえていた門倉が振り返った。
「……なぜですか?」
「家の歪みがないかを確かめるには、2階の南側の窓と決まっているのです。開け閉めするときに違和感がないか、確かめさせてもらいます」
「…………」
門倉が黙る。
由樹は思わず生唾を飲み込みながら、二人を交互に見た。
もちろん点検にはそんな項目はない。
2階の南側の部屋。
そこにあるのは大抵……。
夫婦が使う主寝室だ。
「……わかりました」
門倉が小さくため息をついて階段を上り始め、二人はそれに続いた。
建ててから5年。
階段にはまだ真新しいヒノキのいい匂いが漂っている。
それに交じる洗濯洗剤の香り。焼けたパンの香ばしい匂い。
でも……。
踊り場で目があった紫雨と頷きあう。
ここには、女性特有の整髪剤や、コロンや、女性が好む柔軟剤の匂いがない。
「どうぞ」
何かを諦めたような門倉が、ため息をつきながらドアを開けた。
それを目にした紫雨が軽く息を吸い込んだ。
長い沈黙の後、紫雨が静かに切り出した。
「……奥さん、帰ってこなかったんですか?」
その質問を予想していたのであろう門倉が応える。
「あっけないものですよ。離婚届が、送られてきまして。それきり、です」
「……嫌だとは言わなかったんですか?」
「それが、内容証明も一緒に送られてきまして。まあ簡単に言えば、離婚に応じなければ、暴行罪で訴えると書いてありました」
門倉は自嘲気味に笑った。
「……紫雨さん」
「はい」
「私は、最低の夫でしょう?」
紫雨は黙って唇を結んだ。
「妻は泣きながら展示場にお邪魔していたらしいですね。傷だらけの妻を見て、皆さん、私のことを最低最悪な夫だと、そう思っていたでしょうね」
紫雨はそれには答えずに、静かに寝室に入っていった。
由樹もゆっくり歩を進めると、部屋を覗き込んだ。
そこには、一組のベッドが真ん中に置かれており、もう一つ、揃いのベッドが解体され、隅に立てかけられていた。
紫雨はそれを通過して南側の窓を開けた。
途端に外からうるさいセミの声が入ってくる。
その合唱をしばし聞いてから、紫雨は静かに窓を閉めた。
「問題ありません」
そして門倉の前に立つと静かに言った。
「私には、わかりません。夫婦のことは、夫婦にしかわからないって言うじゃないですか。でも……」
紫雨は少し言葉を選ぶように俯いてから、また続けた。
「でも、展示場で打ち合わせをしていたときのお二人は、間違いなく幸せそうに見えました」
「………」
門倉は眼鏡を外して強く目を擦った。
由樹は振り返り、寝室のキャビネットの上に飾ってある写真を見つめた。
ウエディングドレスを着た女性が微笑んでいる。
色白で、ふくよかで、幸せそうな女性。
目が大きくて少し幼く見えるが、美人だ。
「……美智さんとはもう連絡を取っていないんですか」
「ええ」
紫雨の言葉に、門倉は咳払いをすると、眼鏡をかけ直して答えた。
「離婚届を返送した後に、ありがとうと一言書かれた手紙が来て、それっきり。今はもうどこで何をしているか、誰と暮らしているかもわかりません」
「離婚届はどこから?」
「東北にある妻の実家からです。でもそこに住んでいるかはわかりません」
紫雨は小さく頷くと、門倉に向き直った。
「本日はありがとうございました。次は10年点検です」
「……はい」
「5年後、門倉さんが幸せな顔で迎えてくださるのを、楽しみにしています」
「…………」
紫雨は返事を聞かずに門倉の脇を抜けると、立ち尽くしている由樹の肩を軽くたたいた。
二人は階段を降りた。
展示場のときの癖で、足音を消しているはずなのに、二人のそれは、静まりかえった家の中に、うるさいほどに響いていた。
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