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「あれ。新谷は?」
掃除に現れない彼に気づいて、篠崎は展示場を見回した。
「今日、直行ですよー」
吹き抜けのアイアン手すりから渡辺が叫ぶ。
「どこに?」
篠崎もよく響く声で2階に向かって叫ぶ。
「わかんないすけど、紫雨さんと同行だって書いてありましたけどー?」
「…………」
篠崎は掃除機を放り出すと事務所に戻り、ホワイトボードを見た。
『直行 紫雨リーダーと同行訪問』
「同行訪問?」
眉間に皺を寄せながら、篠崎はパソコンを起動した。
システムを開き、新谷由樹のスケジュールを開ける。
「【3年点検】?」
客名は書いていない。
建てて間もない形だけの点検など、何の勉強にならない。
しかも3年と言えば、一番客からクレームを受けやすい時期だ。
引き渡しから1年くらいはやれ完成現場見学会のお願いだの、記念品のおすそ分けだの、足繁く通っていた営業が、ぱったりと訪れなくなるのがこの時期であるということと、契約時や打ち合わせ時に思い描いていた家との微妙な相違点が露呈してくるのもこの時期であるからだ。
だからこそ3年点検は営業にとって大切にすべきイベントだ。
不満を溜めつつある客の話を真摯に聞き、一緒に解決することで、客との絆を深め、要らぬクレームを回避するために。
そんな大切な日に、新人を連れて行くなんて……。
(そんなアホなこと、紫雨がするわけねえのにな)
妙だと思った篠崎は、今度は天賀谷展示場のページを開き、紫雨秀樹のスケジュールを開いた。
「……【構造撮影】?」
紫雨のスケジュールには、確かにそう書いてあった。
「…………」
どちらかが、嘘をついている。
いや、どちらも嘘をついている?
なぜ…………。
背中が冷たくなるのとは対照的に、腹あたりが燃えるように熱くなる。
(まさかあの二人、本当に……?)
篠崎は眉間に皺を寄せたまま、ディスプレイを睨んでいた。
「これで満足?」
車に乗り込むなり、紫雨は由樹を睨んだ。
「人の傷をほじくりかえして満足ですかって聞いてんだよ、新谷君」
言いながらシートベルトを引き出している。
「君にとっては他人だからどうでもいいかもしれないけどね、俺にとっては客様なんだよ?商談から、打ち合わせ、引き渡しまで1年かかって、それから今に至るまで、大切なお客様なの!それなのに、なんで俺が、一番痛いところを追求しなきゃいけねえんだよ」
「すみません、本当に……」
「車出せ!俺、今日激務だから!……ったく」
紫雨に怒られながら由樹はキーを回し、ギアをドライブに入れた。
元来た道を走り出す。
無言の由樹を紫雨が睨み続ける。
「紫雨リーダー、今日は本当に……」
「いや、別にいいから。俺のことは」
紫雨が言葉を遮る。
「これで、美智さんは帰ってきてないことと、離婚したことが分かった。君はどうすんの?」
「…………」
「篠崎さんがその事実を知らなかったとして、それを教えるの?」
「…………」
紫雨がため息をつく。
「君の言う”前に進む“が、篠崎さんが離婚してフリーになった彼女に会いにいくってことなのか?そうしたら二人の間にはもう障害なんてないんだから、ゴールインだよ?それでいいの?」
「………それで、いいです」
「は?!意味不明なんだけど!」
「………それで、いいですよ俺は。篠崎さんが幸せになるんだったら」
「…………」
紫雨は苛立たし気にため息をつくと、窓の外を見た。
「まあ早まんなよ。向こうで男作って一緒にいるかもしれないし。もしかしたら結婚してるなんてこともあるかもしれないしさ」
「…………」
由樹はハンドルを握りながら一気に青ざめた。
「その可能性を考えてなかった……!」
「……ねぇ。最近、確信に変わりつつあるんだけど、君って頭悪いの?容易に想像できるでしょ。だって人妻でありながら、あの篠崎さんの落とすような女だよ?モテるでしょ、絶対」
紫雨は舌打ちをしながら、またインパネに足を乗せた。
「俺には露ほどもわかんねーけどな。不倫する女の魅力なんか。夫に暴力をふるわれたらさ、逃げ込む場所は実家か警察だろって。他の男の胸では絶対ないと思うんだけど!」
「…………」
「ああ、くっせえくっせえ。女の匂いがムンムンするわ。自分のこと棚に上げて被害者面して、男に守ってもらうことしか頭にない女。典型的なお・ん・な!!だから嫌いなんだよなー、俺!」
「…………」
なんだか怒りの焦点がずれてきた紫雨を盗み見る。
「紫雨さんって、過去に女性と何か………」
紫雨が被せ気味に叫んだ。
「…………」
「…………」
車内にはまた沈黙が走った。
「んで」
そして口を開いたのはやはり紫雨だった。
「どうすんの」
「……まず、確かめようかと。美智さんが今どうしているのか」
「はあ。まだやんの?」
「はい」
赤信号で車は停まった。由樹はまっすぐ紫雨を見つめた。
「東北の実家の住所はわかりますか?」
「まあ、融資の連帯保証人の関係で、ご両親とも手紙のやりとりしたからわからなくはないけど」
「行ってきます。俺」
紫雨が面倒くさそうにサラサラの髪をガシガシと掻きむしる。
「それさぁ!個人情報とかいろんな意味でヤバいんだけど!!」
「あ………」
「それに、君、見て分かんの?!美智さんの顔知らないのに?!」
「あ、でも、写真で」
「あんな着飾った昔の写真1枚でわかるか!」
スパンと平手打ちが飛んでくる。
紫雨はシートに凭れ、両腕で顔を覆うと、そのまま天井に向けて、大きくため息を吐いた。
「……あああああ……もう……!」
由樹は彼の唇が動くのを待った。
「……運転なんかしねえからな」
「はいっ!!」
「だからってこんな疲れる小さい車で行くのも嫌だから。新幹線代出せよ」
「はいっ!」
「あと」
紫雨は急にムクリと起き上がって由樹を睨んだ。
「金輪際、これ以上の協力はしないからな!」
由樹は大きく頷いた。
「ありがとうございます!紫雨リーダー!!」
「……こんなときばっかり“リーダー”つけやがって」
吐き捨てるように言うと、紫雨は再びシートに沈んでいった。
時庭展示場に戻ると、篠崎がパソコンに何やら打ち込んでいた。
渡辺はいない。
猪尾が相変わらず窓際の離れた席で、客だか業者だかと大声で話している。
「お疲れ様です」
視線を上げない篠崎の隣に行き、会釈をする。
「……お前さあ」
篠崎は少し疲れたような声で、パソコンから目を離さないまま言った。
「直行なら、前日のうちに直接言えよ」
「あ、申し訳ありませんでした」
「まぁ、金曜日からは俺じゃなくて、紫雨に、だけどな」
「……あ」
慌ててカレンダーを見た。
今日が火曜日。明日が休み。
あとは木曜日が終われば、自分は天賀谷展示場に異動になるのだ。
「…………」
また胸の奥に痛みを覚え、由樹は倒れこむように自分の席に座った。
こちらを見ずにキーボードを打ち続ける上司を見つめる。
(篠崎さんの横顔をこの距離で見れるのも、あと僅かなんだな……)
「……んで。3年点検で得るものはあったか?」
篠崎が視線をこちらに向けないまま口を開いた。
「あ、はい」
「例えば」
「………例えば?」
背中を冷たいものが走る。
(……もしかして……バレてる?)
篠崎は左手で眉毛辺りをかきながら言った。
「3年目の家なんてまだまだ新しいだろ」
「そう、ですね」
由樹は言葉を続けた。
「まだヒノキのいい香りがしました」
「……まあ、5年目くらいまでは新築の匂い残ってるからな」
5年目……。
身体に電流が走る。
(……やっぱりバレてる?!)
「でも、今度行かせてもらうときは、10年点検や20年点検にしろよ。家がどこら辺から朽ちていくのか、どういうメンテナンスが必要なのかがわかるから」
篠崎は相変わらずパソコンから目を離さずに言った。
「……あ、はい!」
「な」
言いながらパチンとエンターキーを押すと、由樹をちらっと見下ろした。
その目からは他意は読み取れなかった。
彼は立ち上がると、印刷機から出力した見積もりを取り出している。
(……よかった。バレてない)
由樹は篠崎に気づかれないように、長く細い安堵のため息をついた。