四島忠信は湊に深々と頭を下げた。
「賢治がご迷惑をお掛けしましたようで、申し訳ございませんでした」
すると湊は四島忠信を凝視し、言い放った。
「謝罪する相手をお間違えではありませんか?」
「あっ、ああ!」
すると四島忠信は玄関の土間で土下座をし、菜月と綾野の家の面々に向かい謝罪の言葉を繰り返した。その姿はあまりにも哀れだった。
カコーーーン
佐々木は書類をまとめるとアタッシュケースに仕舞い、菜月と賢治の離婚届をクリアファイルに挟んで茶封筒に入れた。菜月と湊は座敷で脚を投げ出し、
郷士や ゆき 、多摩さんは大きな溜め息を吐いた。
「はぁーーーーーーーー」
「これで、一件落着だな」
「そうですね」
ほっと一息ついたところで、菜月は、両親に向き直り正座をすると畳に指を突いて頭を下げた。
「お父さん、お母さん、ありがとうございました」
「無事解決して何よりだ」
「良かったわ」
「ありがとう」
郷士は襟足を掻きながら、天井を見上げた。
「それにしても、俺には人を見る目がなかったって事だな」
その言葉を聞いた ゆき は、郷士にとって分が悪い所を突いて来た。
「そうですよ、郷士さんが菜月さんに結婚を急がせたからですよ!」
「う、うん」
「四島さんのお家柄を、念入りに調べてからでも良かったのに!」
「う、うんそうだな」
「お金に目が眩んで、郷士さんは馬鹿です!」
「馬鹿だな」
「だから私が湊と!」
「湊?」
思わず口を滑らせそうになった ゆき に、菜月と湊は渋い顔をした。
「湊がどうしたんだ」
「あ、あら。なんだったかしら」
「なんなんだ」
菜月は、ゆき の困り顔を誤魔化すように、茶封筒を手に立ち上がった。
「それじゃ、市役所に行って来るね」
「もう行くのか、昼飯を食べてからでも良いんじゃないのか」
郷士は、湯呑み茶碗の温くなった緑茶を啜った。
「郷士さん、善き事は午前中に済ませるものですよ」
「離婚がいい事なのか?」
「いい事ですよ!あんなお婿さんより湊の方が!」
「湊がどうした」
「あら、なにかしら?菜月さん、み、湊に送ってもらうんでしょ?」
ゆき は慌てて立ち上がり、湊の背中を押した。
「はい、行って来ます」
「行って来るよ」
なにやら腑に落ちない郷士を後に、湊は車の鍵を手に取った。
「菜月は晴れて自由の身だね」
「そうね」
湊の、交通事故で負った傷は日毎に回復し、車の運転も出来るようになっていた。湊は陸橋を超えた坂道でブレーキを踏んだ。
「あ、この交差点」
「そうだね、ここに来ると怖いね」
「事故の時の事を思い出すのね」
「ブレーキが踏めなかった時、もう駄目だと思った」
菜月は怪訝そうな面持ちになり、湊の横顔を見つめた。
「でも、あれは、あの交通事故は」
「なに」
菜月は、湊が遭った交通事故に、如月倫子が加担しているとしか考えられなかった。
「賢治さんが1人であんな事をするとは思えないの」
「どういう事?」
「如月倫子がそそのかしたのよ」
「証拠がないよ」
「賢治さんだけじゃないわ」
「それは警察に任せよう」
アメリカ楓の並木道を直進すると、右手に市役所が見えて来た。
「そんな事より、ほら、着いたよ」
湊は地下駐車場の自動発券機から駐車券を取ると、「緊張するね」と笑った。
「緊張してるの?」
「だってもうすぐ菜月は」
「私がなに?」
湊は満面の笑みを浮かべたがなにも言わなかった。菜月の腕の中にはクリアファイルに挟まれた離婚届があった。これを市役所窓口に提出し、受理されれば菜月と賢治の離婚が成立する。そして、再婚禁止期間の100日を過ぎれば2人の婚姻が認められる。
「菜月、暗いから気を付けて」
「うん」
薄暗く狭いコンクリートの階段を上ると視界が明るくなり、2人は新鮮な空気に深呼吸した。大きく背伸びをした菜月と湊は手を繋ぎ、市役所の自動ドアを跨いだ。
「住民課って何処かな」
「あ、あそこ」
「よく知ってるね」
「だって2度目だもの」
「あ、そうか」
1度目は賢治との婚姻届、2度目は賢治との離婚届。
「3度目は僕たちの婚姻届だね」
「そうね」
「すみません、お願いします」
畏まった表情の菜月と湊は、並んで椅子に座った。
「綾野、綾野菜月さんですね」
「はい」
「そちらの方は」
「弟です」
「綾野さんのマイナンバーカードか保険証、身分を証明出来る物をお願い致します」
菜月は、緊張と喜びに震える指でショルダーバッグからマイナンバーカードを取り出した。
「少々お待ち下さい」
市役所職員は離婚届とマイナンバーカードを後方デスクの職員と二人で確認し、コピーを取っていた。庁舎内には忙しなく、固定電話の呼び出し音が鳴り響いていた。
「緊張するね」
菜月の頬は紅潮していた。
「うん」
「汗かいて来ちゃった」
「本当だ」
カウンターの下で繋いでいた手のひらに、しっとりと汗が滲み始めた。市役所職員がマイナンバーカードを手に椅子に腰掛け、賢治との離婚届が受理された事を告げた。
「住民票は今すぐ発行可能ですが、戸籍謄本の作成までは、一週間ほどお時間を頂きます」
「はい、分かりました」
「お疲れさまでした」
「ありがとうございました」
菜月と湊は顔を見合わせて席を立った。菜月の表情は、晴々と明るくなった。
「菜月、離婚おめでとう」
「うん」
湊が優しく頷き、2人は自然な動きで腕を組んだ。
「菜月、少し歩かない?」
「そうだなぁ、のんびり出来る所が良いな」
「じゃあ、中央公園、楓の樹が綺麗だよ」
「もう秋かぁ」
「そうだね」
2人は、紅く色付いたアメリカ楓を見上げながら、石畳の路を歩いた。風にハラハラと舞い落ちる色彩豊かな葉が美しかった。ふと透明な揺らぎが湊の頭を掠めた。
「わぁ、シャボン玉」
「僕たちもよく庭で遊んだね」
「シャボン玉の石鹸で石楠花をビチャビチャにして怒られたね」
「あの時の父さんは鬼だったね」
「うん、怖かった」
公園の芝生広場で、小さな男の子が母親とシャボン玉で遊んでいた。まだ幼なかった菜月と湊も、綾野の家の庭で同じように遊んだ。懐かしい思い出に微笑む菜月に、湊が屈み込み、口付けた。
「これで僕は、菜月の物だよ」
「私の物なの?」
「ずっと一緒にいる」
「ずっと?」
「ずっと、どんな時も一緒だよ」
二人は抱きしめ合って口付けを交わした。
「湊、プロポーズみたいね」
「なに寝ぼけた事言ってるの」
「そうなの?」
「菜月、僕のお嫁さんになって下さい」
小学生だった湊は、奥の和室で願い事を書きながら、菜月にそう告げた。
「ふふ、あの願い事と同じセリフ」
「返事は」
「お嫁さんにして下さい」
「はい」
湊は足元のクローバーの群れにしゃがみ込むと、指先をしきりに動かした。
「なにしてるの」
「四葉のクローバーを探してるの」
「幸せの四葉のクローバー?」
「うん」
「そんなに簡単に見つからないわよ」
菜月も同じようにしゃがみ込んで湊の顔を覗き込んだ。
「湊」
「なに」
「湊がいれば四葉のクローバーは要らないわ」
菜月がその頬に口付けた。
「あーーー!ママ!男の人がチューしてる!」
「こ、こらっ!」
「チューしてる!」
「やめなさい!もう!」
幼い男の子は、ショートヘアでパンツ姿の菜月を男性と勘違いをした。顔を赤らめた母親が、慌てふためいた様子で男の子を抱き上げ、何度もお辞儀をしながらその場を去った。菜月と湊も会釈し、顔を見合わせて笑った。
「男の人だって」
「菜月がそんな格好しているからだよ」
「パンツ姿もなかなか良いでしょ」
「僕はワンピースの菜月が良いな」
「分かった」
湊の手が止まる。
「あっ!」
「あった!?」
湊が手にしたそれは、三つ葉のクローバーだった。
「ちぇっ」
「良いのよ、湊がくれる物ならなんでも」
湊はクローバーで輪を作り、菜月の左手の薬指にゆっくりと嵌めた。青い、草の匂いがした。
「あの日もこうして指輪を作ってくれたわ」
「そうだね」
「2個目のエンゲージリングだわ」
「今度は本物の指輪をあげるよ」
「これも本物だわ」
菜月も、三つ葉のクローバーで指輪を作り、湊の左手の薬指にゆっくりと嵌めた。ところがそれは呆気なく、芝生の上にポロリと落ちた。
「あっ」
「あーあ、菜月は本当に不器用だなぁ」
その時、カトリック金沢教会の鐘の音が正午を知らせた。
「菜月、永遠を誓いますか」
「誓います」
「僕は幸せ者だよ」
「もっともっと、2人で幸せになろうね」
「そうだね」
菜月と湊は手を取り合い、芝生から立ち上がった。
「痛っ。」
「いた?なにがいたの?」
「なんだか腰が、背中が痛い」
湊は腰の辺りを摩りながら顔を顰めた。
「ええ、おじいちゃんみたいな事言わないでよ」
「なに、僕がおじいちゃんになったら嫌なの」
「その時は私もおばぁちゃんだから許す」
「なんだよ、許すって!」
湊は、芝生を蹴って菜月を追いかけ、菜月はゆるいウェーブの髪を揺らし、笑い合った。湊の手が、菜月の細い手首を捕まえた。互いの頬は紅潮し、胸の鼓動を感じた。生きている、菜月はその幸せに大きく深呼吸をした。
「ねぇ、菜月」
「なに」
「男の子が良いな」
「男の子?」
湊が菜月の耳元で囁いた。
「僕たちの赤ちゃん」
「赤ちゃん、湊は気が早いのね」
「男の子なら、きっと菜月を大切にするよ」
「そうかなぁ」
「僕の子どもだもの、大切にするよ、きっと」
青々とした芝生。子どもたちの笑い声が、幾つものシャボン玉を作った。それは空高く舞い上がり、やがて儚く弾けて消えた。
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