紫雨は瞼を開けた。
ラブホテルはビジネスホテルや観光ホテルとは違い、窓についている扉を閉めてしまうと、朝でも昼でも完璧に光を遮断する。
紫雨は怠い身体をムクリと起こすと、ベッドのパネルに表示されている時計を睨んだ。
3時。
3時か。
隣に寝ている男を見下ろす。
この男と何時まで行為に投じていたのだろう。
天賀谷についたのが、22時過ぎだったから、それから街を回ってホテルに入ったとして。
23時ころからだとすると……。
わからない。どれくらい長い時間、抱かれていたのか。
途中までは覚えているのだが、2回目に果ててからは何が何やらわけがわからなくなった。
身体を滑る唇が熱くて、押さえつける指先の力が強くて、悶えるほどに興奮した。
自分に入るモノが、まるであらかじめそこに入ることが決められていたかの如く違和感がなくて、それでいて、突かれるとと思わず腰が動いてしまうほどの存在感を放ち、つい抱きつきそうになるのを必死で堪えた。
「………………」
枕を抱えるようにうつぶせに寝ている林の、体型にしては長い指を見下ろす。
紫雨の指にそれを絡ませ、切なそうな顔で見つめた林を思い出す。
「……そんな顔で、あの女も抱いたのかよ?」
その寝顔に呟いてみて、自分でふっと笑った。
「何を言ってんだ俺は」
言うとまた笑いが込み上げてきて、紫雨は彼を起こさないように口を塞ぎながら立ち上がった。
自分は林にひどいことをしてきたし、ひどい態度をとってきた。
その自分が何かに傷つき涙を流し、ガキみたいに怯えながら何かから逃げる様を見て、彼の何かが刺激されただけだろう。
そんな一時の感情に言いなりになってたまるか。
相性がいいからと言って、7つも年下の、しかも部下である彼の身体にハマってたまるか。
紫雨は落ちていた服をかき集めると、煙草臭いソファの前に申し訳程度に置いてあるローテーブルに一万円札を置いて、部屋を後にした。
ーーーーー。
3時か。
これからビジネスホテルに行って寝直すものも怠い。
展示場に行っても6時まではセキュリティが働いているため入れない。
(家に帰るか?)
一瞬その選択肢も浮かんだが、マンションの駐車場で待ち伏せされていたらアウトだ。
(ていうか、岩瀬はなんで俺をつけ狙うんだ?)
思考を巡らす。
身体目当て?
それとも――――。
(……金かな―――)
考えながら静まり返った街を歩く。
金なんて要らない。
ほしいならくれてやる。
職業を知った途端に追いかけまわし始めた岩瀬にでも―――。
警察にではなく、弁護士に相談しているという林にでも―――。
◇◇◇◇◇
母親は、ロシアンパブのキャストだった。
とはいっても、客との間に子供を作ったわけではない。
笑ってしまう話だが、父親とは図書館で出会ったらしい。
父親が酒を飲むたびに繰り返しその話をするので、その時の古い図書館の本棚や机に差し込む陽の光の温かさや、すれ違った瞬間に香った異国のコロンの香り、おおよそ図書館には不似合いなヒールの音まで、まるで自分が体感したかのように如実に脳裏に浮かぶのだった。
とこまでが事実か、どこからが脚色かはわからない。とにかく、二人は出会い、恋に落ちた。
そして紫雨が生まれた。
なぜ籍を入れなかったのかは聞いたことはない。父親が話したことがなかったからだ。
紫雨を生んでから2年、妹を生んだ年に、母親が勤めていたロシアンパブが違法営業で一斉摘発され、ビザを不法に取得していた母親も強制帰国となった。
そこでも二人には、籍を入れて、日本に残るという選択肢ははなかった。
なぜかは知らない。父親が語らなかったからだ。
父は自分と妹を、男で一つで育ててくれていたが、職場でひどいパワハラに合い、蒸発という形で姿を消してしまった。
紫雨が13歳。妹が11歳の時だった。
ロシアの血が混ざる紫雨と妹は、親戚の間をたらいまわしにされた。
そしてやっと引き取り手が見つかった。
仕事でカナダに行っていて、帰国したばかりの父の姉。つまりは―――伯母だった。
それからは地獄の日々が始まった。
紫雨は全く覚えていない母親の顔を思い浮かべ、話したこともないロシア語で毎日呟き続けた。
Мама Почему родила меня?
( お母さん、なぜ俺を産んだんだ? )
マンションまで愛車のキャデラックを取りに行くこともできず、昨日の全力疾走ですっかり傷んでしまった革靴にとどめを刺すべく市街を歩いた。
「ーーーーー」
1時間ほど歩いたところで、時庭展示場跡地が見えてきた。
今は来春に本格始動するスーパーの建設に向けて、遊歩道の整地、ハウジングプラザの管理棟だった建物の解体が進んでいる。
紫雨はたった3ヶ月前までそこに停まっていたアウディを思い出していた。
篠崎が時庭展示場に配属になったのは、紫雨が入社して、6年目の年だった。
すでにそのころ、二人は主任に昇進していたが、時庭展示場のマネージャーが定年で辞めるタイミングで、篠崎がマネージャーとして引き抜かれる形で異動になった。
そのころは天賀谷展示場と時庭展示場は来客数もとんとんで、28歳でのマネージャー昇進は異例の大出世だった。
彼がマネージャーに抜擢されたことには驚かなかった。
そのころすでに、室井の成績を追い越し、県内に在籍する50人の営業スタッフのうち、すでにトップ5の成績を叩き出していた彼が、実力主義の秋山のお眼鏡に適ったことは、ある意味当然のことだった。
ただ自分の隣に常にいた彼が、他の展示場に行くことだけにひどい違和感があったことは覚えている。
隣の席にいた時は、話したり、視線を交わしたりもしなかった。
そんな二人は、マネージャーの室井や、後輩の若草から見て、ライバル関係に映ったかもしれない。
そして先に昇進した篠崎を、紫雨は面白がっていないと、回りの目には歪んで見えたかもしれない。
しかし実際は――――。
紫雨は仄暗い感情を思い出しながら、まだ唯一そのまま残っている駐車場の花壇や、懸垂幕が撤去されたポールから目を逸らした。
隣にいる彼を意識しすぎて、視線を上げることさえ困難だった。
キーボードを打つ指が視界に入らないように、二人のデスクの間にファイルスタンドを立てた。
時折漏れる唸り声や息遣い、電話の声や同僚と話す際の笑い声が耳に入ってこないように、事務所にいるときは常に自分のアプローチを録音したレコーダーを聞いていた。
椅子の肘掛けに凭れた彼の腕が軽く触れるたび、後ろを通過するときに彼のつけているコロンが香る度、泣きたくなるような感覚を覚えた。
それらの苦痛が、その異動を期に全て消えた。
そして無人のデスクには、新人である渡辺が入ってきた。
今まで封じ込めていた分、我慢していた分、紫雨は隣の席に座る渡辺に絡んだ。
きっと誰が座っても同じだったと思う。林でもそうだったろうし、もちろん新谷でも、もしかしたら飯川でも、紫雨はきっと、その席に座った人間に同じように接したに違いない。
篠崎が座っていたその席にーーー。
何かあるたびに、渡辺のデスクを覗き込み、少しでも疲れると、渡辺に寄りかかった。
その代わり、渡辺が何かに迷ったり、悩んでいるときには惜しげもなく自分の知識を教えてあげた。
―――渡辺が自分に憧れという感情を抱いていることはすぐに気づいた。
隣の展示場に在籍しているため、何かと姿を現す若く麗しい篠崎ではなく、自分に憧れてくれたことが、少なからず嬉しかった。
そしてその憧れに、見え隠れする“それ以上の感情”についても不快ではなかった。
そんな時、展示場に変な客が現れた。
建築を学んでいるという大学生で、こちらが無下に断らないのを良いことに、ちょくちょく展示場を訪ねてきては、構造や性能について質問して帰っていった。
「天賀谷展示場の来客名簿を見たんだけど」
篠崎から電話がかかってきたのは、彼が現れ始めてひと月も経たない頃だった。
「この鎌田っていう大学生、こっちにもちょくちょく顔を出すんだよ。それで、ちょっと変なことがあったから」
「変なこと…ですか?」
「ああ。喫煙所に捨てた俺の煙草をわざわざ漁って持って帰ったんだよ」
「……何すか、それ…」
紫雨は、ニコニコしている大柄な男子大学生の顔を思い出して、凍り付いた。
「多分、そっちの気がある奴なんだと思う」
「…………」
当時、まだ“そっちの気”を隠していた紫雨はほんの少し言い淀んだ。
「それにしたって吸い殻とか異常でしょ」
言うと、篠崎はため息交じりに言った。
「もし俺だったら反撃できるけど、お前みたいに小柄な奴は、あんな奴に羽交い絞めにでもされたらヤバい。極力紫雨は相手しないようにしろよ。お前、無駄に見た目が良いからな」
「—————」
――――無駄に見た目が良いからな。
篠崎から何気なく出た、たったそれだけの言葉に、自分で呆れてしまうほど舞い上がった。
篠崎が心配してくれるなら、彼が少しでもムカついてくれるなら、その大学生に身体を差し出してもいいとさえ思った。
――そのとき、いつも自分の隣に、顔を上気させながら座っている渡辺が目に入った。
自分より10センチも身長が高く、自分よりも40キロも巨漢の男。
もしこの男が、自分を襲ってくれたとしたら―――。
篠崎は自分に同情してくれるだろうか。
そんな下らない興味が、たちまち紫雨を鬼に変えた。
渡辺を誘い出し、界隈の店に連れて行った。
あからさまに自分から仕向け、関係を持った。
いつ言おう。
いつ篠崎に、自分たちの関係を相談しよう。
そうわくわくしている間に、渡辺から「もう終わりにしたい」と言われた。
紫雨は怒り狂った。
「お前みたいな豚、本当はこっちから願い下げなんだよ!」
渡辺をひどい言葉で傷つけ、半ば強引に関係を続けた。
心身ともに限界を迎えた渡辺が秋山に相談し、そこから篠崎の耳にも伝わった。
渡辺を引き取りに来た篠崎は、紫雨のことを一瞥し、冷たく言い放った。
「今後、渡辺に対する連絡は、全て俺を通せ」
あの時からだ。
篠崎が自分を軽蔑し、距離を置くようになったのは―――。
それをせっかく、アイツが変えてくれたのに―――。
「……おい、今日も星が見えねぇぞ」
曇り空に向かって紫雨は呟いた。
「星が見えない夜は、どうすればいーの。教えろよ。新谷……」
紫雨は空を見上げて歩き続けた。
時庭展示場跡地が、もう視界に入らないように。
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