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4時に設定したアラームが鳴った。
林は慌てて身を起こした。
「……遅かった……!!」
隣に眠っていたはずの紫雨の姿はなく、ローテーブルには1万円札がただ置かれていた。
「……あーもう……」
頭を抱える。
あの人は時間を置けば置くほどひねくれる。
できれば彼が目覚めてすぐに言っておきたかったのに。
林自身も昨日気づいた気持ちを――――。
林は時計を睨んだ。
きっと彼は、始業までの4時間半で凝り固まった歪んだ感情を形成する。
そしてそれは誰に都合がいいわけでもなく、ただ、彼を追い詰め、傷つけるだけの結論である気がする。
4時でも遅かった。
起きたらさすがに気配と音で気づくと思っていた。
あんなに気配を消すのが得意な人間相手に――。
「何やってんだよ、もう……」
一人にさせればさせるだけ、危うい人なのに………。
彼のマンションに行ってみたが、キャデラックは停まったままだった。
どうやらその危険性は認識してくれたらしいことにホッとしながら、林はハンドルを切った。
当てもなく闇雲に探すこともできず、林は天賀谷駐車場で待ち続けたが、彼らしい影は現れなかった。
室井が出社し、他の営業や飯川も出社しても、彼は現れなかった。
「え、まさか来ないパターンとか、ある?」
今日は日曜日だ。
彼は打ち合わせのアポも入っていたはずだ。
来る。絶対。
林はそのままギリギリまで待ち続けた。
腕時計を見る。
8時半だ。
諦めてドアを開けようとしたところで、その前に男が立っていることに初めて気づいた。
「………うわっ」
驚いて仰け反ると、その人物はフッと口の端を歪めて笑った。
「どーした。まるで幽霊でも見たような顔だな」
「………………」
そこにはいつも通り髪の毛を整え、傷パットも綺麗なものに取り換えた、紫雨が立っていた。
「紫雨さん、無事で、よかった」
車から出てきた林は開口一番、ふざけたことを抜かした。
「脅迫して、無理矢理上司を犯した男がよく言うぜ」
「————」
言うと林は困ったように、少し視線を下げた。
その視線に合わせて紫雨は封筒を取り出すと、それを駐車場の上に投げ捨てた。
「————」
林がその3つのそれを眺める。
「知ってる?」
紫雨は胸ポケットからコンビニでかった煙草を取り出した。
「ATMじゃ50万までしか下ろせないっていわれてるけど、生体認証に登録しておくと、200万から1000万円まで下ろせる銀行もあるんだぜ」
言いながら火をつける。
「——————」
「強姦の相場は300万だそうだ。俺はお前に怪我はさせてないし、お前だって昨日、俺に同じことをしたんだからこれでいーだろ。あと俺に構うなよ。俺もお前に手を出さないから」
「……………」
札束が入った封筒を見る林の顔からは感情がほとんど読み取れない。
紫雨は白い煙を吐きながら腕時計を見た。
「ヤバい。遅刻だ。ほら急げ」
「————紫雨さん」
「あ?」
「俺、こんなこと―――」
「……なんだ、こんなことって。弁護士雇うってことはそーいうことだろ」
紫雨はこの後に及んできれいごとを言い始めようとしている部下を睨んだ。
「それとも俺の解雇か、降格や異動が目的なのか?それなら秋山さんに直接相談しろよ」
煙を吐きつけるように言う。
解雇。
解雇、か。
自分で発した言葉がブーメランのように弧を描いて自分の胸に突き刺さる。
(でも、もしそうなったら、いっそスッキリするかもな)
踵を返そうとすると、
「………煙草」
「あ?」
「煙草吸い始めたんですか?」
「——————」
紫雨はいちいち癇に障る男を睨み上げた。
「元々は吸ってたんだよ。でも――――」
「————?」
「関係ねぇだろ」
紫雨は踵を返すと展示場に向けて歩き出した。
何か後方からまだ声が聞こえた気がしたが、もう振り返らなかった。
ふらふらと左右に揺れながら事務所に歩いていく上司の後ろ姿を見つめながら、林はため息をついた。
(あー、そっか。そっちに転がったか…)
目を細めながらそのブラウンの髪の毛を見る。
弁護士を引き合いに出したのは、気まぐれだったが、金目当てに思われるとは予想外だった。
ただ手に入れたかっただけなのにーーー。
一時でもいいから、抱きしめて、その体温を感じて、自分を見てほしかっただけなのに。
たとえ、脅してでも――――。
林は投げ捨てられた札束が入っている封筒を拾い上げた。
「こんな金で、俺から逃げられると思ってるんですか、マネージャー」
事務所の階段を上がっていく後ろ姿に向かって呟く。
「あなたには、俺しかいないんですよ?」
紫雨は力なく事務所のドアを開けると、こちらを振り返ることなく、中に入っていった。
「篠崎さんも、新谷君も、もういないんだから」
林は封筒を胸ポケットに入れると、駐車場を眺めた。
秋山の車が停まっている。
「……“秋山さんに直接”、か……」
黒のマジェスタに移る青空を睨むと、林はやっと展示場に向けて歩き出した。