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あれは2年前。
共通棟に入ったところで、1年生と思われる学生たちが、掲示板を見ながらたむろしていた。
「見て、集中抗議だって」
「え、今更募集かけてんの?」
「海洋生物の実習だって」
「実習って。海に行くってこと?」
「あ、そうだよ、ほら。4泊5日だって」
(へえ…)
入り口の自販機で缶コーヒーを買いながら千晶は振り返った。
(海洋生物の実習か。海で4泊5日。楽しそう…)
「あ、でもダメだ。ほら。参加費、10万円だって」
「あはは。だからじゃん、人が集まらないの」
笑いながら女子大生たちがそのポスターから離れて行く。
そこには、沖縄のようにきれいな海をバックに、生々しいナマコの写真が雑に貼り付けられていた。湿気と乾燥に交互に当てられたその写真は、丸まって、今にもポスターから落ちそうだ。
10万か。
千晶は長い髪をなびかせながら階段へ続く廊下を進んだ。
(出せない額じゃないけど、それだったら別に授業じゃなくて、自分で旅行して勉強してもいいかな)
階段を上がり、2階の共通棟202の教室に入る。
100人収容できる教室は半分くらいの席が埋まっている。
千晶が廊下側の一番後ろの席にバッグを下ろした。
「あれ、千晶先輩」
廊下を歩いていた同じ医学部の後輩が話しかけてくる。
学科内では貴重な女性の後輩だ。
「なんで6年生なのに、共通の授業取ってるんですか?」
隣には男友達だろうか、初々しい男もくっついている。
「単純に生物に興味があるの」
「生物に?」
言いながら黒板を見ている。
「毒性を持つ生物の医学的検知について…?」
「そうよ」
後輩が笑いながら千晶を見あげる。
「千晶先輩って頭良くて美人なのに、たまにちょっと変ですよね」
千晶は大きい緑色の瞳で後輩を睨んだ。
「ほっといて。早くいかないと授業始まるわよ」
「はーい」
後輩は舌を出しながら遠ざかっていく。
「おい、超美人じゃん。紹介しろよ」
男友達が後輩の肩をつつく。
「だめ。千晶先輩は男が嫌いなの」
2人が去っていくと、千晶は頬杖をつきながら、息を吐いた。
(別に、嫌いなわけじゃないんだけど)
教師が入ってくる。
(単純で単細胞で。生物学的につまんない生き物だと思うだけ)
千晶はバッグから眼鏡ケースを取り出すと、それを装着して、黒板を見上げた。
「それじゃあ、廊下側半分は身近に潜んでいる毒のある生き物をケースで見てもらいます。決して開けないように。
窓側半分は毒虫に刺された、または噛まれた際に毒を吸いだすキットを回すので実際に説明書を見ながらやってみてください」
千晶はやる気のあるんだかないんだかわからない、無表情な教師を眺めてから、席に回ってきた“トビズムカデ”を見つめた。
『生息地、日本全域。危険時期5月~7月。噛まれると激しい痛みで歩くことも困難になる』
ケースに貼られた説明シートを読む。
「おい、こういうの見るとさ、“ケモノ姫”って映画思いださねえ?」
窓側から声が聞こえてくる。教師がいるというのに、授業中とは思えないほどの大声で話している。
「わかる。あれだろ、オオカミの血を口付けて吸い出すやつだろ?」
「なんかさ。エロいよな」
日中しかも授業中に相応しくない言葉に千晶は彼らを睨んだ。
目の前には、いつの間にか前の席から回ってきた“ニホンマムシ”のケースが置かれている。
(どこにも程度の低い輩はいるものよ。無視無視)
『生息地、日本全域。危険時期4月~10月。年間被害は………』
「おい、新谷。お前さっき、毒虫に噛まれたんじゃなかったか?」
リーダー各の男が笑っている。
「え、俺、噛まれてないけど……」
千晶は顔を上げた。
その声には聞き覚えがあった。
「噛まれただろ。腕。俺が吸い出してやるよ」
見ると、数人の男子生徒に囲まれている、見覚えのある華奢な後ろ姿があった。
「あいつ。また……」
それは千晶が先日、友人に暴行をはたらいたリョウという男を警察に突き出した際に、被害にあっていた男だった。
いかにも自己肯定感の低そうな、自分の意思を伝えるのが苦手そうな、華奢で弱々しい男。
(ああいう男が一番、つまらないのよね)
千晶は目を逸らし、またマムシに向き直った。
『年間の被害は2000~5000件』
「チュパッ。ほら、お前、白いからすぐ赤くなるよな」
「わ、なんかエロくない?」
「……ちょっと……やめろよ」
『咬まれた部位は膨張し、腫れの進行とともに出血や急性腎不全を引き起こす』
「腕の裏の方が白いから赤くなりそうだよ」
「どれ。チュウウウ。ホントだ」
「……もうやめろって」
『人だけでなく、犬でも毒に寄って死に至るケースが確認されているため、犬の散歩などには十分注意が必要』
「首は?首。ほら、キスマークとかすぐ出来そうじゃん」
「やってみろよ、ほら」
「……ほ、ほんとにやめて」
「やらせろよ。減るもんじゃないし」
「んんっ……痛ッ……!」
「はは。エロい声出すなって」
「あー!ついたついたキスマーク」
「キモ!!」
「おい、俺にもやらせろよ」
『危険を感じると尾を細かく震わせて威嚇するが、それ以上近づかずに無視して遠巻きに通り過ぎれば、ほとんど害はない』
「あっ。んん…い、痛いって」
「暴れんなよ。お前、好きなんだろ、男のことが――――」
「お前、こんなに白いともしかして乳首もピンクだったりする?」
「やめろって……」
「見てみようぜ。うわっ、腹も白いなこいつ………」
気が付くと、千晶はその男たちの群れの中心に、ニホンマムシのケースを振り落としていた。
ガラスケースが割れ、中からマムシが飛び出す。
「うわあああ!!」
「やばいやばい!!」
「毒蛇だあああ」
男たちが逃げ惑う。
その中で唖然としていた男の腕を掴むと、千晶は走り出した。
「あ、え?ちょ、ちょっと!」
男は戸惑いながらもついてくる。
バッグを手にし、廊下に飛び出した。