防空壕の跡 陸
「ああ、目が覚めたかい?」
ひやりと冷たいものを額に感じて瞼を上げると、ツルさんの微笑みが俺を包んだ。
倒れてしまったのだと気づいて、俺はがばっと身を起こす。
「あっ、こら、そんなに急に動いたら……」
ツルさんは俺を再び寝かせて、冷たい水に浸した布で顔を拭いてくれた。
「井戸で汲んできたばかりの水だから、冷たくて気持ちいいだろ」
「あ、すみません、わざわざ……」
お礼を言いつつも、やっぱり戸惑ってしまう。 井戸って。やっぱりここは、昔の日本なんだ。再び愕然として、俺は目を瞑った。
「ねえ、あんた、みことちゃんだっけ?」
「はい……」
「みことちゃん、家はどこだい?このあたりじゃ見ない顔だけど」
当然だ。俺の家が、こんなところにあるわけがない。俺には、帰るとろこがない。
それに気がついて、勝手に涙が滲んできた。
「あらあら、どうしたの。もしかして……おうち、なくなっちゃったのかい? 」
ツルさんがゆっくりと背中を撫でてくれる。
その優しさに、とうとう涙がぽろりとこぼ!た。
「そうかい……こないだの隣町の空襲だね、きっと。かわいそうにねえ……」
ツルさんがふうっと息を吐いた。
「私もね、あのとき、家族を亡くしたんだよ……。まあ、この店だけでも助かったからね、それだけでも、生き甲斐が残ってくれて良かった。不幸中の幸いってもんだよ。」
ー空襲?そんなの、本当にあるんだ。そしてツルさんは、空襲で家族を失ったんだ。
なんて世界に俺は来ちゃったんだろう。
いやだ。こんなの。帰りたい。帰りたい。
うちに帰りたい……。
「……すみません、ご迷惑おかけしました。ありがとうございました」
俺はツルさんに頭を下げて、返事も聞かないままに鶴屋食堂を飛び出した。
来た道の記憶を辿って、なんとか防空壕に辿り着いた。
勢いよく板戸を開けて中に飛び込む。
でも、何も起こらない。元の世界に戻らない。
「やだ……帰りたい。帰りたい、帰して! 」
泣きわめきながら、狭い壕の中を這い回り、壁を叩いて、地面を蹴って、どこかに別の出口がないか探した。でも。
「……なんで?」
変化は何ひとつ起こらなかった。俺は砂利の上にへなへなと座り込んだ。
ーそうだ。ここに来たときは、眠って目が覚めたらこの世界にいたんだ。ということは、同じように壕の中で眠れば、起きたときには現代に戻れるはず。
俺は泣きながら地面に横たわった。
いやだ、いやだ、いやだ。
こんなところはいやだ、という思いだけが、
俺の心を支配していた。
混乱のあまり眠れそうにもなかったけれど、泣きじゃくっているうちに、疲れていたせいか、いつの間にか眠りについていた。
でも、目覚めても、やっぱり俺は一九四五年の日本にいた。
また大泣きして、泣いて泣いて、もう一度眠った。そうして起きたときにも、やっぱりもとのままだった。
「……喉、渇いた。お腹すいた……」
俺はよろよろと立ち上がり、外に出た。
何時なのか、何日経ったのか、全く分からない。
「……もう、帰れないのかな……」
ぽつりとこぼした呟きは、晴れ過ぎた青空に吸い込まれるように消えていった。涙はすでに枯れてしまって、視界は滲みすらしない。
唐突に、カバンをツルさんのところに置いたままだったことを思い出した。とにかく取りに行かないと、と思い、ふらふらとした足どりで、俺は鶴屋食堂に向かった。
「あら、みことちゃん!!」
のれんをくぐると、ツルさんが慌てて駆け寄って来た。
「どこ行ってたの、心配したんだよ!」
「え……心配?」
見ず知らずの俺を?素直には信じられなくて、俺はツルさんの顔をじっと見た。
そんな俺には構わず、ツルさんは「さ、入って入って」と店の奥に連れ込む。
「あれまあ、こんなに汚れちまって……いったいどこで寝てたんだい?とりあえず汚れを落とさなきゃ」
そう言ってツルさんが俺を連れて行ったのは、裏庭だった。真ん中に大きなたらいが置いてある。
ツルさんはそのたらいに水を張り、
「さ、水浴びしなさい」と言った。
「え……こ、ここで?水で?」
「あら、あんたんちはこうじゃなかったかい?大丈夫だよ、夏だからね」
「でも、ここ、庭……」
「ああ、人目を気にしてるの?塀があるから大丈夫だよ」
ツルさんはあっけらかんと言って、「さあ、その汚れた服を脱いで」と催促した。
「む……っ、無理無理、ごめんなさい無理です!そんな、外で裸になるなんて!」
俺が必死で首を横に振ると、ツルさんがきょとんとした顔をした。
「あら、みことちゃん、庭で水浴びしたことないの?」
「なっ、ないです、ないです!」
「あれまあ、良いおうちの子なんだねえ。それなら、こっちに来なさい」
ツルさんが次に俺を導いたのは、台所らしき場所たった。
土間の端に大きな土の塊みたいなものーたぶん『かまど』と呼ばれるものがあって、上面に空いたふたつの穴に鍋と釜がすっぽりとはまっている。下の穴には細い薪が数本だけ、ひっそりと差し込んであった。
「ここなら誰にも見られないし、水を使っても安心だよ」
「お、お風呂場、ないんですか……」
「あら、このへんはみんな銭湯に行くんだよ。家に風呂場があるなんて贅沢もんさ。ただ、最近は銭湯もねえ、燃料の木炭やら薪やらが手に入らなくなってるからね、営業してない日も多いんだよ。だから、湯に浸かれるのは四、五日にいっぺんってとこだよ」
……うそ。本当に?俺は愕然とした。
お風呂に毎日入らないなんて、考えるだけでぞっとする。しかも、こんな暑い時期に。二日やそこら入らなかっただけで、こんなに汗臭いのに。
俺がショックを受けてる間にも、ツルさんはてきぱきと動く。さっき庭に置いてあったものよりひとまわり小さいたらいを持ってきて土間に置き、杓子で汲んだ水を張ってくれた。
「着替え、持ってくるからね」
と言って台所に去っていく。
とりあえず、汗を流すだけでも、と俺は砂埃まみれになったシャツを脱ぎ、落ち着かない気分で裸になって、たらいの水の中にに手拭いを浸した。ぎゅっと絞って身体を拭く。
「うう、つめたい……」
いくら夏とはいえ、水浴びはさすがに冷たい。でも、仕方がないか。水浴びできるだけでも幸せなんだと思わないと。
ひんやりとした水に髪を浸して洗っていると、「着替え、ここに置いとくよ」と戸口からツルさんが顔を覗かせた。
素っ裸を見られて、俺は恥ずかしさに全身をびくりと硬くする。それを見て、ツルさんがぷっと噴き出した。
「あれまあ、私なんてみことちゃんのおばあちゃんと同じくらいの年齢なのに、何を恥ずかしがってるの」
「いえ、だって……」
「それにしてもみことちゃん、ずいぶん痩せてるねえ」
ツルさんはずいっと近づいてきて、俺の二の腕を掴んだ。
「ほら、私の手首よりも細いよ。お風呂がついてるような家なんだから、食べ物に困ってたわけじゃないんだろ?もっと栄養あるもん食べて、ちゃんと肉つけないと。いくら贅沢は敵って言っても、身体を壊しちゃ元も子もないんだから。お風呂あがったら、店のほうに来なさい。ご飯作ってあげるから」
俺が口を挟む隙もなく、ツルさんは一気に言ってぱたぱたと出て行った。
全身を拭き終えて、ツルさんが用意してくれた服に着替える。丁寧に畳まれていた服を広げてみて、「うわ、モンペ」と呟いてしまった。うちの中学のジャージより百倍ださい。
しかも、上は着物だ。着方がよくわからない。仕方がないのでとりあえず適当に身につけて、店のほうに行く。
「あら、みことちゃん!襟が反対だよ」
「あ、やっぱり……」
服の着方さえ知らない俺を、ツルさんは怪訝な顔で見ている。
「そういえばあんた、ベスト着てたもんねえ。今どきあんな格好してるなんて、びっくりしたよ。今はどこの学校も西洋のものはやめてモンペになったってのにね」
「いえ、ははは……」
俺は慣れないごまかし笑いを浮かべた。
「ほら、食べなさい」
ツルさんが食卓に出してくれたのは、湯気の立ち昇る味噌汁、大量のたくあん、さつまいもの煮物、小さな魚の佃煮。そして、妙に茶色っぽいご飯。
いろいろ気になるところはあったけれど、数日間何も食べてない俺のお腹は、目の前の食事を見た瞬間に盛大な音を立てた。
「す、すいません……」
顔が真っ赤になっているのを自覚しながら呟くと、ツルさんは明るい笑い声を上げた。
「ほらほら、冷める前に食べなさい。たいした物じゃないけどね、味つけにはけっこう自信があるんだよ。なんせ、ここは食堂だからね」
「……いただきます」
こんなにも真剣な、純粋な気持ちでこの言葉を口に出したのは、たぶん生まれてはじめてだと思う。
最初にお味噌汁を飲んだ。あじがうすかったけれど、野菜の味がしっかりと染み出した、ものすごく心温まる味だった。
「おいしい……」
佃煮も芋煮も、ほんのり甘辛くてじんわりここに染みる。
見慣れない色のご飯をじっと見ていると、ツルさんが、
「それ、麦ご飯だよ。たべたことないか食べたことないかい?」
「あ、はい、ないです……」
「あれまぁ、本当にお坊ちゃんなんだねぇ。白米は高くて、たくさんは手に入らないから、麦やら粟やらを混ぜて炊くのさ」
麦ご飯は、食べ慣れた白米とは違う風味と歯ごたえがあって、おいしかった。お腹を膨らませるためなのか、皿にいっぱい盛ってあるたくあんも、素朴で最高の味付けだった。
「ごちそうさまでした」
箸を揃えてツルさんに頭を下げると、ツルさんは「どういたしまして」と笑った。
ツルさんの笑顔はなんだかほっとする。
「ところでさ、みことちゃん」
「はい」
「あんた、行くとかないなら、ここで働かないかい?」
「……え?」
私はぽかんとしてツルさんを見た。
「この店の近くに陸軍の飛行場があってね。今は重要な作戦の基地になってるから、たくさんの兵隊さんが配属されてるんだ。その人たちが休みになると食べに来てくれるんだけど、どうも忙しくって手が回らないことが多いんだよ。だから、みことちゃんが手伝ってくれると嬉しいんだけれど。あ、もちろん住み込みでね」
いたら俺でも、ツルさんの気づかいに気がついた。俺が家を失くしてしまったと思って、ここに住ませてあげる、と言いたいのだ。
でも、そういう言い方だと俺が遠慮すると思ったから、わざと「手伝って」と言ってくれたのだ。
俺はじんわりと心が温まるのを感じた。色褪せてすりきれたモンペの膝をぎゅっと握りしめて、ツルさんに頭を下げる。
「……よろしくお願いします」
「そうかい、よかった。助かるよ」
なんて優しい人だろう。
どこの誰かも分からない、役に立つかも分からない俺を引き取ってくれるなんて。この人がいなければ、きっと俺はこの見知らぬ世界で路頭に迷い、数日のうちに命を失ったことだろう。
そこまで考えて、急に、いちばんはじめに私を助けてくれた男の人ー翠野さんのことを思い出した。俺の命の恩人だ。
また会えるかな。
そしたら、ちゃんとお礼を言おう。
僅かに赤らむ自分の頬と
とくとくと、五月蝿い心臓の音を
知らないふりをした。