「橘家との、縁談……かあ……うふふ、ふふふふふ……」
うなるような低い笑い声が誰もいない社内に響く。頭の中にはお金がチャリンチャリンと転がって、お金の音しか聞こえない。橘家との婚姻によりどんな利益が出るのかを考えるだけで、口元のよだれが止まらない。
(……ゲ。まあた、あの小童は薄気味悪く笑ってんなあ……おおかた、金絡みの妄想だろう)
そんな声が扉の向こうから聞こえてきて、知成の動きは止まる。そしていそいそとデスクの下に隠れた。
「まったく、おまえはいつまで経っても気味が悪いねえ! ……知成?」
バン! と純一郎と同じように乱暴に開け閉めする声の主が、いきなり不機嫌になったのがうかがえる。
(……はあ。まあた、かくれんぼかい? ……飽きないねえ。なあにが敏腕若手社長だ。自分で言ってて恥ずかしくないのかね。お子ちゃまのくせに……)
あのやろう、俺のことをそんなふうに思ってたのか……知成は頬をぷくーと拗ねたように膨らませ、膝を抱え、うんと小さくなる。
カンカンとヒールが故の甲高い足音が近づいてくる。それと同時にメラメラと何かしらの圧を感じる。絶対にバレていることは明確だ。そして、その圧はデスクを挟んで頭上で止まる。
(……飽きないねえ、知成……)
頭上から影が伸びてくる。そして、綺麗な黒い毛がチラリチラリと視界に入ってくる。
「かくれんぼはおしまいだよ、知成い……!」
にゅっと頭上から覗き込むようにして出てきたのは、見慣れたはずの相方の恐ろしい般若のような顔だった。
「ぎゃあああああああああああああああああああ!」
腰が抜けそうになった。
相方は覗き込むことをやめ、知成の元へと来る。そして縮こまって震える知成の視線に合わせるように屈んだ。
「なんだいなんだい、そのバカ丸出しな顔は」
(そ、そんなに怖い顔してたかな……)
「だいたい、あたしがこうやってやることは目に見えてわかってただろうに」
(いつも通りだったんだけどねえ……新しいアイシャドウだからかね……?)
ニシシと豪快に笑っているくせに、心の中ではいつもの態度からは考えられないほど繊細で、知成は笑えてしまう。
「なに笑ってんだい? 小童。」
「いや、特に……で、蝶子さん。連絡もなしに、どうしたんです?」
知成の相方、久浦蝶子は満足げにニヤリと笑った。
「あたしの弟子に縁談が舞い込んできたと、あの丁稚から聞いてねえ。せっかくだから、そのバカみたいにお金に浮かれている顔を見にきたんだ。」
(あんなに女性嫌いだったのに、結婚するだなんてどんな心変わりかねえ。……でも、弟子が幸せになろうってんだ。師匠なら立派な背広を見繕って拵えて笑顔で幸せを願わなきゃな)
と、二つの声が混合して聴こえる。知成はふにゃりと顔が緩んでしまう。
「……そうでしたか」
ムッと、蝶子は顔をしかめた。
「なんだい、そんなだらしない顔をして。……せっかく師匠が来たんだぞ? もっと驚くなり飛び跳ねて喜ぶなりしろよ。せっかく群馬まで行って、東京に帰って来たというのに……」
「いや、そんなに遠くないでしょう。山形よりは」
「そ、それはそうだが……」
と、不貞腐れたように蝶子は唇を尖らせるが、突然、顔をパァッと輝かせた。何事かと構えるが、蝶子は自慢げに自身のことを指差す。
「これ、なにかわかるか?」
ニコォと怪しげな笑みを浮かべる。
知成は蝶子の服装をまじまじと見た。
綺麗な顎の位置を基準に切り揃えられた艶のある黒髪に、赤薔薇の飾りがついた黒いハットを被せて、大きな襟のあるシックな色合いの黒いロングワンピースに、赤薔薇の刺繍が施されたハイウェストな黒のベルトを巻いて、その上に膝上の牡丹の花が描かれたシックな赤の羽織を羽織っている……実に蝶子らしいデザインだ。だが、ワンピースの形が不思議な形している。女性らしいラインを強調するようなタイトな形でもなく、可愛らしいふんわりとした形でもない。腰から膝上まではタイトなスタイルだが、膝下から足首にかけては綺麗な曲線のふんわりとしたスカートになっている。
「……これは?」
「あたしが試しに作ってみたのさ。群馬で上等な綿をたくさんもらっちまったから。……男にゃわからんだろうけどね、今、世の中にあるワンピースって動きづれえんだ。ちょこちょこ歩いていねえと破けちまう。あと、長ったらしい羽織も嫌いでね。ひらひらひらひらとうっとうしくて。ちょん切っちまったよ。でも、なかなかにいい映えじゃねえか? この黒のパンプスにもえれえ似合うしよ」
「たしかに……今までにないデザインだ……」
膝を折り、知成はまじまじと蝶子の衣服の裾を持ち見つめる。鼻高々に蝶子は「でしょ?」と笑った。
「蝶子さん。これ、商品になりますかね……?」
知成は顔を上げる。蝶子はくふふと笑った。
「やっぱり、おまえはそうこなくっちゃ。……もちろん、端から売るつもりだったさ。あたしそっくりのデザインじゃなくても、これはきっと買ってくれる女たちがいるだろうね」
「でしょうね。……さっそく制作の方に移りますか?」
「ああ、任せてくれよ!」
「頼みますよ。あなたにしか任せられませんから」
蝶子は嬉しそうにソファーにどしんと腰を下ろした。
蝶子は知成がまだ九つの時に出会った、五つ年上の女性だ。人の心の声が聴こえるという能力のせいで苦しんでいた知成を救ってくれ、そしてこの繊維商社を建てるきっかけをくれた唯一無二の恩人でもある。普段は自由奔放で自分本位で自信家で元気いっぱいで、お世辞でも年相応とは言えないが、本当は誰よりも思慮深く、涙もろく、心優しい人であることを知成は誰よりも知っている。社員も蝶子のことを慕っている。社員の中で特に純一郎は蝶子を親しみを込めて姉さんと呼ぶ。なぜかと聞いたら、蝶子はとても頼れる姉のような存在だからと言っていた。俺は頼れないのか、といたずらをすると、純一郎は真っ青になって懸命に首を横に振り弁明していたことを、ぽつりと思い出した。
「何をまたニヤついてんだ。」
「少し、昔を思い出して。」
「そう……いろいろあったな。大変だったなあ……」
(理由は違えど、互いに良い幼少期は送れていなかったからなあ……)
「そうですねえ……」
蝶子はうーんと手を上に伸ばし、
「とりあえず、あたしは仕事をするよ。だから、知成も仕事しな。」
と机の上にある書類に手を伸ばす。
「あと、必ず、妻は大事にするんだぞ。おまえのことだから、お金ばっかり目に行くだろうけど。少しだけでも、妻のことは考えられるように、相手のことを知ってあげるんだぞ」
知成は眉を八の字に曲げて、
「……はい」
とだけ答えた。
正直、橘家の令嬢のことを知るつもりはない。必要最低限は干渉しないつもりだ。そもそも、互いの利益がゆえの縁談だ。なぜわざわざ相手のことを知る必要があるのだろうか。まったくの他人が、ただの紙切れで繋がっただけの他人になるだけだというのに。たとえ妻になる人だとしても、人間であることには変わりはない。人間の腹で考えていることは、欲深くて、耳を塞ぎたくなるようなことばかり。聞きたくなくても聴こえてくる欲をわざわざ聴く必要はないだろう。
蝶子は知成の心の声のことも知っている。むしろ、その心の声を昔ほど深く気にしなくなったのは、蝶子のおかげであった。それなのに、なぜそのようなことを言ったのだろう。蝶子は知成にとって恩人だ。そして、大切な家族だ。蝶子のことは知成がよく知っている。だけど、蝶子のその言葉の意図だけはわからなかった。心の声を聴いても、何も得られなかった。
コメント
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なんだか旧作の方とはちょっと違う感じになっててすごく面白いです…✨ 旧作の方でもとんでもなく上手かったのに更に上手くなってて衝撃です…… 最近テスト続きで全然見れてなかったので、テスト終わりの土日にまたじっくり見させてもらいますね!!!!