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それからというもの、篠崎による夜のシゴキは、連日続いた。
「市内でカーテンを扱っている店を10個答えろ」
「テレビの消費電力は、平均何ワット?冷蔵庫は?」
「換気フィルターの耐用年数と保証期間は?」
求められる知識は多種多様で、カタログの隅に小さな文字で載っていることから、何を見ても載っていないことまで、篠崎が口を開くたびに違う質問が飛び出した。
「ええっと……ええっとぉ……!」
涙目になりながら、言葉に詰まる由樹を見て、篠崎は呆れた。
「何もお前を虐めたくてやってんじゃねえよ。ただ展示場にくる客ってのは、10人いれば10人が違う質問をしてくるもんなんだよ。何でかわかるか?」
「いえ……!」
「それは、一人一人が家に求める理想が違うからだ。
友人に自慢できるお洒落な家に住みたい奴もいれば、夏は涼しく冬は暖かい家に住みたい奴もいる。
地震などの災害に強い家が欲しい人もいれば、電気代のかからない家に住みたい人もいる」
そこで言葉を切って篠崎は少し馬鹿にしたように笑った。
「お前の言葉を借りるなら、それぞれに合った“幸せ作り”をしなきゃいけねえってことだ」
なんだか途端に恥ずかしくなり、由樹は俯いた。
「まあ、せいぜい頑張れよ」
言いながら篠崎は事務所に消えていった。
「………それぞれに合った幸せ作り、か」
スマートフォンが鳴る。
『今日も遅いの?もし早く帰れるようなら連絡してね』
由樹はそれをポケットに戻すと、質問された内容を記したメモを握りしめ、事務所に戻った。
次の日。
眉間に皺を寄せながら、断熱性の比較表をにらんでいる由樹を見て、渡辺が微笑んだ。
「毎日頑張るね」
「……はい!ここが踏ん張りどころかな、と思うので」
言うと、渡辺は一瞬目を開き、また優しく細めた。
「うん。もちろん新谷くんも頑張ってるんだけど、俺が言ったのはマネージャーの話」
「え……あ!」
思わず赤面してしまう。
「そうですよね、俺なんかのために毎晩毎晩。感謝しかないです」
慌てて言うと渡辺は今度は声を出して笑った。
「でも実際にそうだよー?篠崎さんは忙しいんだから。マネージャークラスになると、年間販売棟数が15棟くらいなんだけどさ」
15棟。
何千万もする家が、15棟……
果てしない数字に思わず天井を仰いでしまう。
「常に7、8棟は大工さんが入って工事しているわけだよね。そういうところに足を運んで、写真をとったり、大型車や騒音で迷惑している近隣へのフォローをしたりするのも、営業の仕事なのね」
近隣へのフォロー。そんなことまでしなければいけないのか。
「それに加え、展示場を見に来てくれたお客様に内覧会をお誘いしたり、イベントの通知を打ったり、それももちろん営業の仕事。
加えて成約して打ち合わせに入ったお客様の、設計から上がってきた図面を3Dに直して、家具なんかの画像を入れ込んで、わかりやすいように鳥瞰図(ちょうかんず)を作るのも営業の仕事。
さらに、打ち合わせで変わった内容で、見積もりを作り直すのも営業だし、加えて銀行ローンの審査から申し込みまで段取るのも営業」
目が回ってきた。
「さらにさらに、土地がないお客様のために、不動産を駆け回って条件にあった土地を探すのも営業だし、外構業者を紹介して、見積もりと図面を3D化して提示するのも営業。
しまいには建て替えのお客様の場合、仮住まい先を探して紹介するのも営業の仕事………まだまだあるけど、続けるぅ?」
「…………」
もう言葉が出てこなかった。
(じゃあやはり、家に関わること、全てを知っていなければだめじゃないか)
「家1棟成約をもらうだけで、引き渡しまでの10か月間つききりといっても過言じゃないほど、全てをやってあげなきゃいけないんだよ。それを15棟もこなしてんだから、マネージャーは化け物。はっきり言ってね。
その上、君の指導までしようってんだからすごいなって」
そこまで言うと、渡辺は声を潜めた。
「ここだけの話。支部長から、君の指導は俺が任されてたんだよ。それなのに、急にマネージャーがさ、“あれの指導は自分がするんで”って言ったんだよね」
「え……」
「君がさ、勉強し終わってへとへとになって帰ってからも、マネージャーは外で飯食ってから戻ってきてるんだよ。んで業務を黙々とやってる。朝も現場に出る工事課と同じくらいの時間に出社してさ。ほんと、タフだよ、あの人は」
そこまで大変なのにやってくれていたなんて、知らなかった。
由樹は擦り切れ、付箋だらけになったカタログを見下ろした。
「だからさ、一日も早く一人前になれるようにがんばろ?かく言う俺も、頑張りまーす!じゃ、打合せ行ってくるね!」
渡辺はA3の図面を鞄に入れると、笑顔で事務所を出て行った。
事務所には、ひたすら鉛筆を走らせる設計士の小松と由樹だけが残された
「……頑張らなきゃ」
呟くと、
「そーだな」
と乾いた声が返ってきた。
由樹はふっと笑うと、スマートフォンを取り出した。