瑞野漣の生意気な顔と、おぞましかったが今思えば確かに上手だった“乳房の牡丹”を回想しているうちに、気づけば一通りの説明は終わっていた。
久次は来た森を抜け、駅に出た。
普段わざわざ足を運んだりはしないが、そこには最近小さいながらも中華街ができて、小籠包が美味い店があるとと地元テレビで取り上げられていた。
生徒や教師との話題作りも大切だ。
ただでさえ、地元から遠い地に勤め友人もおらず、恋人も家族もいない久次であればなおさらのことだ。
別に職員室の老輩たちや、授業を受け持つだけの生徒たちに何と思われても構わなかったが、合唱部の生徒たちにだけは、“なんか暗いクジ先生”ではなく、“話してみると意外に楽しい久次先生”と思ってもらいたかった。
中華街は混んでいた。
当たり前だ。オープンしたばかりで、さらに今は夏休みだ。
友人、家族、カップルで溢れかえった、やけに赤色と金色の建物が多い道を抜けていく。
「―――ここか」
小さく呟く。
【小籠包 来来】の店先は評判なだけあってひと際混んでいた。
別に予定も待たせている家族もいない。
久次はその列に迷わずに並んだ。
「あー、もうこっちだって!お父さん!お父さんたら!」
前に並んでいた太った中年女性が叫び、頭が禿げ上がった中年男性が笑いながら列に加わる。
「買えたの!?餃子!!」
男性はすぐ横に並んだのに、声量を落とすことなく中年女性が聞く。
「……売り切れだった」
男性は苦笑いをしながら小さな声で言った。
「なーにやってんの!もう!!」
女性がこれまた周囲に響き渡る声で言う。
その前に並んでいる家族が振り返り、くすくすと笑っている。
久次も微笑みながら、辺りを見回した。
「ヤスイヨ!!オイシイヨ!今日ハ、一個オマケダヨ!!」
「ココガ元祖!通りの向こう側にあるのはニセモノダヨ!!」
中華街の道端で、片言で叫んでいる中国人とみられる売り子を眺める。
こうして見ると、同じだ。日本人も中国人も。
美味いものと、楽しい話題と、僅かな金と、汚い打算と、笑っちゃうような人情を、ごちゃまぜにして、誤魔化しながら生きている。
自分は――教師だ。
だが教師になりたかったのではない。
古文を教えたかったわけでもない。
本当は――――。
久次は暑さに汗ばんだ喉を、そっと触った。
――――
『クジ先生の声って、ちょっと掠れてるよね?』
「――――」
『おっきい声、出ないの?』
――――
そういえば―――。
初めに気づいたのも――彼だった。
「まずい……」
どんどん日が翳る雑木林をひたすら走った。
眼鏡を忘れた。
そう気づいたのは、約1時間並んでやっと手に入れた小籠包を、調子に乗って駅を3つ超えたところにある国立公園の燃え上がるようなベンチで食べ、湖に浮かぶスワン型のボートと鴨の番なんかを眺め、自宅の駅に近くにある以前から気になっていた焼き鳥屋で砂肝と心を買って、コンビニでビールを買った後だった。
どうせ明後日の夜には教室があるので、そのときでもいいかと一旦は諦めかけたものの、明日は合唱部の練習がある。
譜面のような細かい文字は眼鏡がないと見えない。
雑木林を抜けると、当たり前だが、森のアトリエはちゃんとそこにあった。
駆け寄る。
アトリエの南側の掃き出し窓が一つ、僅かに空いている。
そこから顔を覗かせ声をかけていいだろうか。
しかし夕日が当たるアトリエには照明はついていなかった。
やはり玄関から回るべきか。
「――――ッ。あ……」
久次がキョロキョロと洋館を見回していると、アトリエの方から人の声が聞こえた。
久次はそちらに回った。
そして――――足を止めた。
西側の窓から入る真っ赤な陽の光が、南側の掃き出し窓に影を作る。
その影は、確かに二つあった。
二つの影が、小刻みに揺れている。
「……は……」
ため息にしては苦しそうな、声とは呼び難い息が漏れる。
「あ……ぁあ……」
息はハッキリと声になり、断続的に響き始めた。
「あ…!ああ、はあッ、ああ……!」
床の軋む音。
「んん……ん。ふ……んんん……」
掠れた少し高い声に交じって聞こえる、低い唸り声。
いくらそういう経験が少なく、知識に疎い久次でもわかる。
曇りガラスの向こう側。
真っ赤なアトリエで―――。
男女がセックスをしている。
揺れるシルエットは、沈む夕日に従って伸びているが、女性が小柄かつ華奢で、男性が大柄で太っていることはわかる。
覆いかぶさるように重なっている二つの影の体勢と、たまに移動する手や足のシルエットから推測するに、台のようなものに両手をついた女性に、男性が後ろから挿入しているらしい。
「あっ、アアッ、あ……あ、ああ!」
掠れた声が大きくなる。
女性にしては少し太いが、濁りのない綺麗な声だ。
細い顎が上がる。
ショートヘアにパーマを当てた髪の毛が揺れる。
男の手が彼女の小ぶりなのかほとんどシルエット上ではわからない乳房を包んだ。
「アアッ!!はああ!そこ、ダメって……!!」
女性の声が高くなる。
「………乳首、弱いもんな」
男のねちっこい声に鳥肌が立つ。
女性の声に対して、男がだいぶ年上であることがわかる。
まさか谷原かと瑞野の母親か?
いや違う。彼はこんなに太ってはいないし、瑞野の母親はロングヘア―だった。
「イキそう……?」
男が尚も気色悪い声で聞く。
「……イク……イクぅ!」
「――――っ」
久次は硬直しているはずの身体の下半身を見下ろした。
自分のソレは、硬いジーンズの上からでも、薄暗い森の中でもわかるほどに反り立っていた。
―――こ、んなの不可抗力だ……。
自分に言いわけをする。
だって、彼女の声があまりにイイから……。
視線を影に戻す。
男の抽送が激しくなったのがわかる。
女性の細い二の腕を持ち、後ろから腰を打ち付けている。
「――!!」
そこで久次の眼に、信じられないものが飛び込んできた。
挿れられている女性の股間からのびた影が、男の動きに合わせてブラブラと揺れている。
――それはどう見ても、男の陰茎の影だった。
それが男の太い手に掴まれ、上下に扱かれると、喘ぎ声は絞り出すような悲鳴に変わった。
――男同士でセックスしてるのか……?
待てよ。もしかして、この声――。
気が付くと久次の足は動いていた。
僅かに開いている掃き出し窓。
中を覗いた。
真っ赤に燃え上がるようなアトリエ。
生意気にこちらを見上げていた瞳を潤ませて、
挑発的に教科書を出した手を握りしめ、
自分に向けてフワフワと振った腕を、毛の生えた太い指に掴まれながら、
瑞野は、
瑞野漣は、
彼の倍も体重のありそうな中年男と、
――――セックスをしていた。
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