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病院に休みなんてない。途切れのない二十四時間を限られた人数で診ていくのだから、医師の勤務はとてもハードだと思う。
出勤すると、毎日のように当直ではない先生の時間外勤務報告書が机に置いてある。救急か病棟か、とにかく当直医だけでは手がまわらずに呼び出されたのだろう。
報告書に記入された時間を見ると、二十三時から翌朝四時までとか、夜間から深夜にかけて何度も病院に来たような記載まである。
夜中に呼び出されたからといって、翌日の勤務が免除されるわけではない。始業前のカンファレンスに参加して、午前の外来にも出る。もちろん、前日も一日仕事をした挙句、だ。
空いたスキマ時間に医局の机に突っ伏している姿を見るたび、先生たちはいつ人間らしい睡眠をとっているのだろうと不思議で仕方がない。
働き方改革なんて、少なくともうちの先生たちにとっては宇宙の話なんじゃないかな。今、目の前で話している由香だってそう。
彩は医師たちの勤務を間近に見てきて、少しでも快適に仕事をしてもらうにはどうしたらいいのか考えるようになっていた。
「聞いてくれてありがと、彩」
ひとしきり愚痴を言った由香が、すっきりとした顔をする。彼女はいつもこうだ。たまった鬱憤を吐きだして、そのあとは二度とネガティブな話はしないし引きずらない。
「どういたしまして」
「そういえば、藤崎君たちそろそろ院外研修に出るんだよね?」
「ああ……、うん」
彩は、壁の隅っこに掛けられたカレンダーに目を向けた。オーナーの予定だろうか。十月二十七日に大きな赤丸がついている。
「来月から竹内先生が総合病院の外科行って、亜弓先生が医師会の救急でしょ? それから、藤崎先生は精神科。他の科もローテートするから、みんな半年は帰って来ないね。でも、どうしたの? 急に研修医の話なんか持ち出して」
「懐かしくてさ。鍛えられて帰ってくるんだろうね」
「そうだね。特にうちは研修医に甘いから、よそでは苦労することも多いと思うよ」
「あのさ、彩。直球で聞くけど、彩は藤崎君のこと本当になんとも思ってないわけ?」
昔から、由香にはどんなことも包み隠さず話してきた。苦い初体験も不眠のことも、由香にだけは打ち明けている。彼女だけがこの世で唯一、信頼できる拠り所といっても過言ではない。それくらい彩は由香に信頼を寄せて、由香も同じように彩に心を許している。
由香は、彩が仁寿に告白されてそれを断ったのも知っている。もっとも、彼女は仁寿とも仲がよくて、いろいろと彼からの相談にも乗っているらしい。しかし、どんな相談を受けているのかは秘密だそうだ。肝心なところは口がかたい。
「あのね、由香。実はさ……」
ハイボールに浸かった丸氷が、カランと涼やかな音を立てる。彩が声をひそめると、由香が目を大きく見開いた。
「うっそ。家に泊まったって、いつよ!」
「土曜日」
おまたせ、と料理が運ばれてきた。とりあえず食べようか、と由香は彩の言葉を飲み込むように一人頷いて、フォークに巻きつけたそんなに辛くないペペロンチーノを頬張った。
「驚かせて、ごめん」
「そりゃ驚くよ。もう恋愛で傷つきたくなくて、彼の求愛を突っぱねたんじゃなかったっけ?」
「まぁ、うん……。いろいろあって、おしに負けちゃったというか」
「確かに彼、ブレずに我が道をいくタイプだもん。あの精神力は強烈。いかにも温厚そうな見た目をしているから、余計にガツンとくるよね」
「それもあるけど……、完全にわたしが悪かった」
「へぇ、そう」
由香が、意味ありげに笑う。
土曜日はいつものようにお昼一時過ぎにタイムカードを打刻して、病院から少し離れた職員専用駐車場に向かった。途中でメッセージの受信音が鳴って、バッグからスマートフォンを取り出してみたら母親からだった。
『元気にしてるの
たまには帰っておいで』
改行をはさんで、二つ並んだ短文。車で片道一時間ちょっとの距離なのに、気づけば一年近く実家に帰っていない。お父さんが心配で東京から帰って来たのに、忙しさにかまけて逆に心配をかけている。
ごめんねと心の中で言いながら、車に乗って返事を打ち込む。それに夢中になっていると、突然、助手席のドアが開いて藤崎先生が乗り込んできた。
「ふーっ、間に合った」
彼が、息を整えながらドアを閉める。驚きのあまり声が出なかった。そして、どうにか声を絞り出した時には、彼はシートベルトを締めて、いつでも出発してオーケーだよ! と言わんばかりの状態になっていた。
「……あの、藤崎先生。失礼ですけど、おりてくださいませんか?」
「一緒に帰ろうよ」
「いえ、すみません。予定があるんです」
「予定って?」
……はい?
いきなり乗り込んできてなに言ってるの?
どうしてプライベートな事情をあなたに教えなきゃいけないの?
喉の奥でわだかまる言葉をぐっと飲み下す。眠れない夜の、嫌な動悸がし始めた。強烈な眠気を感じるのに、目を閉じれば地獄のような拷問が待っている。この恐怖から逃れる方法は一つ。絶対に、由香以外には知られたくない。知られてはいけない。
「彩さん?」
顔を覗き込まれて、どこに視線を向ければいいのか分からなくなった。
貴重な時間がつぶれていく。家に帰ってシャワーを浴びて、バーに行って、早く不眠から解放されたい。それに、二人きりのところを誰かに見られたら。圧倒的に女性が多い職場で、一度変な噂が立つととても厄介なのに……。
「ちょっと気晴らしに行きたくて」
「僕も行っていい?」
「だめです」
「酷いなぁ、即答しないでよ。そんなに僕が嫌い?」
柔らかな笑顔が、ちくりと心に刺さる。彼は、人当たりがよくて優しくて、欠点を見つけるほうが難しい人だ。交際は断ったけれど、嫌いなわけではない。
けれど、先生は睡眠導入剤を服用するように男と寝る女とは違う。彼にふさわしい、素敵な女性と楽しい恋愛をするべきじゃないだろうか。だから、きっぱりあきらめてもらうために決心した。軽蔑されたらそれも本望。彼の未練を断ち切るために、言ってしまおうって。
「先生がどうのじゃなくて……。困るんです、先生が一緒だと」
「困る?」
「はい。相手を探しに行くので」
「相手って、なんの?」
「セックスの相手です」
先生は、期待どおり目をぱちくりさせて、とても驚いているような顔をした。しかしそれは一瞬で、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。そして、探さなくてもここにいるじゃない。にこやかに、さらりと、そんなことを言われたような気がする。
「で、ちゃんとつき合うの?」
由香が胸まである巻き髪を耳にかけて、彩の目を覗き込むように見る。彩は、その視線から逃れるように、グラスに残ったハイボールを一気に飲み干した。
本当に、わたしが悪かった。
おいしいはずのハイボールが、ただシュワシュワと炭酸の刺激だけを残して喉を落ちていく。医局秘書として、大切な初期研修の二年間をしっかりサポートしなきゃいけないのに、わたしは一体なにをやっているのだろう。
カラン、と空になったグラスの中で、小さくなった丸氷が鈍い音を立てる。
「つき合わない」
「なんで?」
「先生には、研修に集中してもらわないといけないから」
「仕事熱心な医局秘書さんだ。じゃあ、藤崎君のこと、嫌いってわけじゃないんだね?」
「嫌いじゃないよ。だけどわたし……、藤崎先生をそういう対象として見てない」
「藤崎君は、彩をそういう対象にしか見てないよ」
「よく分からない。わたしなんかよりいい人がたくさんいるはずなのに、なんでだろうね」
「でた、わたしなんか論。彩ってさ、なんでそんなに自己肯定感が低いわけ? あれだけ仕事もてきぱきこなして、見た目も性格もなんら問題ないのに」
「それは由香が親友の目で見てくれてるからだよ」
「あのね、彩。最近は、不眠だけじゃなくて病気でもいっぱい悩んで泣いたでしょう? だから私、彩にはたくさん笑ってほしいって思ってるんだよ」
「ありがとう。由香の優しさがしみて、涙が出そう」
「こんなことで泣かないで。涙がもったいないじゃないの」
照れるように笑って、由香がカクテルを注文する。オーナーが、カクテルとハイボールをカウンターに置いた。オーナーは、彩がハイボールしか飲まないのを知っているのだ。
二人が「ありがとう!」と元気な声を揃えると、オーナーは「ゆっくりしていきなね」と言い残して厨房に入っていった。
「藤崎君に病気のことは話したの?」
「ううん。不眠については成り行きで話したけど、そこまで重たい話はさすがに……」
「話してみたらいいのに。彼、全力で受け止めるんじゃない?」
「そう……、かな。でも、迷惑にしかならないと思う」
「頑固だなぁ、彩は。五年も片想いするって、彼の精神力を考慮しても並大抵じゃないよ。なにはともあれ、一線をこえたら一瀉千里。これから覚悟しておいたほうがいいわね」
「ど、どういう意味よ」
彩が、動揺をごまかすように髪を触る。その時、スマートフォンの着信音が鳴った。画面に「藤崎先生」と表示されている。それに気づいた由香が、早く出なよと肘で彩を小突く。
「病院でなにかあったのかな。ちょっとごめんね」
「いいよ、気にしないで。ほら」
覚悟なんて物騒な言葉を聞いたからか、さっき飲んだハイボールが喉に引っかかってごろごろいう。彩は咳払いをして画面をタップすると、「はい、廣崎です」と仕事用の声で電話に出た。