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その客が展示場にやってきたのは、昼食を済ませた頃だった。
チャイムに反応してみんなでモニターを見上げる。
「親子か?」
歯ブラシを咥えたまま篠崎が立ち上がる。
歩くのもやっとというような老婆を、娘と思しき女性が、ホール脇の椅子に座らせて、甲斐甲斐しく靴を脱がしてあげている。
と、後ろから、孫だろうか。20代くらいの女性が、車の鍵を振りながら、追いかけるように入ってきた。
「女性のみの来場は決まりやすいんだよなー」
言いながら篠崎は台所に立ち、口をゆすいだ。
(……それは、あなただからでは?)
10人女性がいれば、10人が振り返る男前な上司を、由樹は目を細めながら見上げた。
「新谷」
その視線に気づいてか篠崎が振り返る。
「タイミング見て、お茶な。緑茶の濃いやつ」
「はい、わかりました」
ドア横の鏡でネクタイを確認すると、篠崎は颯爽と事務所を出ていった。
しばらくすると、展示場内から華やいだ笑い声が聞こえてきた。
「防音ドアなのに」
渡辺が歯ブラシを咥えながら笑う。
「相当盛り上がってんね。ま、篠崎さんだからだろうけど」
由樹と同じことを思っていたらしい。
(……罪作りな人だ)
食べ終わった弁当袋を見つめる。
昼休憩ーーー。
“もしかしたら飲み屋のそばに実家があって、昨日はそこに泊まり、弁当もお母様が作ってくれたのかも”
その都合の良い予想は、弁当の中に入れられた、ゴマが振られた肉団子や、串刺しされたウズラの卵とミニトマトや、チーズがかけられたブロッコリーが、ことごとく切り裂いていった。
極めつけは、白飯にピンク色のふりかけで形どられたハートマークだ。
「おいおい……」
蓋を開けた瞬間の困ったような、それでも喜んだような篠崎の顔が頭を掠める。
(……いないわけ、ないって。わかってただろ?)
自問自答しながら、モニターをリビングに切り替える。
篠崎の話に大きく頷いたり笑いながら聞いている母娘。
老婆は、ソファに座って、黙って展示場の天井やら、壁を睨んでいる。
「………ん?」
由樹はモニターが映し出した異様な光景に、身を乗り出した。
老婆がおもむろに指を2本突きだし、あたりを見回しながらそれを横にスライドさせている。
「……何してるんでしょう」
由樹が渡辺に話しかける。
「んー。なんだろうね。なんかちょっと……」
言いかけて涎が垂れそうになったのか、慌てて吸っている。
持ち直すと、渡辺は改めて言った。
「ちょっと、ボケてるんじゃない?あのばあちゃん」
そうだろうか。
由樹はまたモニターに視線を戻した。
「こうして少し勢いをつけたとしても、クッションが衝撃を吸収してくれますので、優しく閉まります」
篠崎が食器棚を開け閉めしながら説明している。
「また、全ての戸に耐震ロックが付いているため、衝撃や振動を察知して、ロックがかかり、もしもの地震の時にも安心です」
「へえ、すごいのねえ」
2人がやや高い声を出しながら、篠崎と食器棚をを交互に見上げる。
誰も老婆の奇行に気づいていない。
その2本の指が横にスライドしながら、軽く上下に動く。まるで波線を描くように。
「何かを……測ってる?」
篠崎と母娘は、モニターのカメラがない洗面所の方に歩いて行ってしまった。
「祖母ちゃーん」
姿が見えない娘の声をマイクが拾う。
「ちょっとボケてっからさ……」
母が篠崎に苦笑して見せる。
「祖母ちゃーん。そこで待っててねー!」
その声に反応することもなく、老婆はまだ壁を見ながら何かぶつぶつと話している。
(あ、もしかして……)
「そろそろお茶だね、新谷君」
渡辺の声で我に返ると、由樹は盆を出し、湯飲みにポットの湯を入れて温めた。
茶葉を急須に入れ、熱湯を入れて蓋をしたところで、再度モニターを見上げる。
老婆は今度は人差し指だけ掲げて、縦に何本も線を描いている。
「……やっぱり!」
由樹の呟きに、打ち合わせ中の平面図とにらめっこをしていた渡辺が顔を上げる。
「なにが、”やっぱり”なの?」
「あ、いえ」
由樹は慌てて湯飲みのお湯を捨てると、急須を軽く回してお茶を注いだ。
展示場に入ると、洗面所で篠崎は2人とにこやかに話をしていた。
(今日も決まりそうだなー)
思いながら会釈をしてそこを通り過ぎ、和室の掘りごたつのテーブルに湯飲みを3つ並べた。
「………」
少し考えてから、1つだけ盆に戻して立ち上がった。
洗面所に寄り、篠崎に視線で合図を送る。
「あ、なんかお茶準備してくれたみたいなんで、あちらでどうぞ」
篠崎が自然に言うと、2人は嬉しそうに顔を見合わせた。
「あれ?祖母ちゃんは?」
娘があたりを見合わす。
「まだ、リビングじゃない?」
母が探しに行こうとするのを、由樹は制した。
「ご高齢の方には掘り炬燵は、立ち座りに大変かもしれません。私、お話を伺って、必要であれば椅子もお持ちしますので、どうぞ、先に和室の方へ」
「あら、いいんですか?」
母がにこやかに笑う。
「あの、この展示場の仕様って、パンフレットで言うどのタイプに当たるんですか?」
娘が篠崎を見上げる。
「じゃあ、詳しくお話ししますので、和室に行きましょうか」
言いながら篠崎がちらりと由樹を見る。
(……頼むな)
声が聞こえてくる。
由樹は小さく頷くと、リビングに向かった。
◇◇◇◇
展示場を出るころ、母娘はすっかりセゾンの家と篠崎の虜になっていた。
「それでは、先行して土地探しをさせていただきます。市内南部で、広さは70坪以上、ご予算は2000万円ほどですね」
篠崎が確認するように軽く手を合わせながら言う。
「候補を何個か選出して、資料をお届けに上がります。住所は書いていただいたアンケート用紙を参照して構いませんか?」
「あ、はい、平日は大体家にいるのでー。いなければポストに」
母親が笑いながら、由樹のサポートで玄関わきの椅子に腰かけた老婆に、靴を履かせている。
老婆はありがとうと微笑むわけでもなく、まっすぐ展示場の外を見ていた。
「気になる場所がありましたら、私の車で一緒に行ってみましょう」
篠崎がにこやかに言うと、娘の方が頬を赤らめた。
「それでは、また」
篠崎よりも深く頭を下げた母娘と、しゃきんと背筋を伸ばしたままの老婆は、展示場を後にした。
「ご成約、おめでとうございまーす」
事務所から出てきた渡辺が笑う。
「土地探しは手間だけどな。まあ、南部で2000万だったら、無くはねぇだろ」
「金の出どころは?」
「3000万はローンで、2000万は現金だと」
「へえ。2000万あるんですか、すごいすね。ローンはリレーすか?」
「いや、母親の夫はもう定年退職してるらしい。あの女の子の旦那が行員なんだけど、これから35年ローンで組むんだそうだ。まあなんなく通るだろうな」
言いながら篠崎は小さく頷いた。
その手には、回収したアンケートが握られている。
職業、予算、金の出どころまで聞けているたっぷり90分以上のアプローチ。
顧客の個人情報も記載するアンケート用紙もちゃんと記入してもらっている。
(……さすが、だなぁ)
心の中で呟きながら、由樹は篠崎を見上げた。
「そうだ。お前、リビングで長々と祖母ちゃんと何を話してたんだよ」
「あ、いえ。あの、セゾンの家を気に入ってくださっていて、それでその話で盛り上がってました」
急に振り返った篠崎に、慌てて言うと、
「あの認知症の祖母ちゃんが?どこまでわかってんだか」
と篠崎は笑いながら事務所の扉を開けた。
「昼夜逆転しちまって、夜徘徊して大変らしいぜ」
言いながら事務所に入っていく。
「…………」
由樹はそれに対して言い返そうと思ったが、少し迷った末に口を結んだまま、緑茶を片付けるべく、和室に向かった。
(……それは多分、違うけどな…)
テーブルには、リビングで老婆に捕まった由樹の変わりに、渡辺が淹れ直してくれたであろう、コーヒーが並んでいた。