「橘家のと縁談……か、うふふ、ふふ……」
知成は腹の底から出る気味の悪い微笑をした。知成の頭の中にはお金がチャリンチャリンと転がっていっている。今は、お金のことしか考えられない。
(まあた、あの小童は、薄気味悪く笑ってんなあ……)
そんな声が扉の前から聞こえて、知成は危機を察知し、そそくさとデスクの下に隠れる。
「まったく、気味の悪いったらありゃしないねえ! ……知成?」
声の主がいきなり不機嫌になったのがうかがえた。
(まあた、かくれんぼかい? ……飽きないねえ、まだお子ちゃまということか……)
あのやろう、聞こえていないと思ってよくも……知成は腹を必死に抑える。だんたんと足音がこちらへ近づいてきて、焦った知成はなぜだかつい猫の鳴き声を真似てしまった。声の主はぷっと吹き出して、
「大衆からもてはやされている人だと聞いたものだから、どんなやつかと思ったら、まさかの猫だったのかい? それは傑作だ」
と叫び出して、知成の肩をひしと爪が食い込むほど強く捕まえた。
「もしかしてだけれど、あたしから逃げられると思っていたのかい?」
低い声が頭に直接響く。思ったよりも顔が悍ましいものだったから、知成は驚いて声にならない叫び声を上げた。
「なんだいなんだい、そのバカみたいな顔は」
(あたし、そんなに顔怖かったかな……)
「あなたのせいでしょう……! ……で、蝶子蝶子さん、今日はどうされたんです……」
蝶子と呼ばれた女性はにんまり笑い、
「あたしの弟子に縁談が来たと、あの丁稚丁稚からもらってね。せっかくだからそのバカみたいに浮かれてる顔を見にきたんだ」
(せっかく結婚するんだから、立派な背広を見繕って拵えてやろう)
と二つの声が混合して聞こえる。
「そうですか」
「なんだい、その淡々とした態度は」
「いいえ、特に。で、本当の要件はなんですか。あなたみたいな人が、そんなくだらないことで、わざわざここまで来ないでしょう」
「あーあ、いじりがいのないガキだな。はいはい、本題に入るよ。あそこの染め屋あんだろ?」
「どこのです」
蝶子はどしりとソファの上に座った。
「あーなんだ、あの、その、平田染め屋」
「角田染め屋です」
「あー、なんだって一緒だ」
「んなわけあるか」
「で、そのー……角井染め屋なんだがな、そこの旦那が目をくらませただと連絡が今朝入ってなあ、……」
「え、あの、角田さんがですか?」
「そう、その角川の旦那がな。おまえ、あそこの染め屋に染めてもらってただろう? だけど旦那が見つからない限り、または旦那以外の染師を見つけない限り、うちの会社は経済が回らんぞ。どうする、知成」
「それは、だいぶキツいですね……」
知成は頭を抱えた。角田の旦那とはかなり仲良くさせてもらっていて、個人的にもお酌を交わす仲であったから、かなりの衝撃であった。
目をくらませたというくらいだから、きっとなにかしらの人には言えぬ理由があったのだろうと推測するが、角田の旦那に目星のつきそうな理由は一つも見当たらない。
「何が、原因なんですかね……」
「それはわからないなあ……なにせ、夫婦二人とも、人の良さげな人だったからねえ」
「角田さんとの交流を断ち切るわけにはいきません。……そういえば、奥様も染めることができましたよね」
「ああ? できたと思うけど、鈴江鈴江ちゃんは無理だよ、なんていったってあの子、まだ見習いの身だからね」
「それでも、できないと断言したわけじゃないし……」
「あたし、おまえのそういうところ嫌い」
蝶子はソファにごろりと寝転がって、もう知らないと呟いた。そしてちょうど、純一郎が勢いよく元気よく戻ってきて、知成は頭を擡げた。
「おかえり、純一郎くん」
「ただいまっす! あ、蝶子姐さんも来てたんすね! ……あれ、なんでここだけ暗い雰囲気なんすか?」
「あはは……」
知成は頭を抱えた。
コメント
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「あー、なんだって一緒だ」 「んな訳あるか」 これ好きです💓なんだかちょいシリアス味を感じます……!! そしてもう定期なんですが最高です!! そして投稿速度が早くてめちゃビビってます🙃 蝶子さん姉貴味があってめちゃくちゃ好きです!純一郎くんは名前に純が入っている通りに純で癒しみたいな感じですね……!そして何度も言いますが最高です!!
相変わらずの表現の凄さや、話の構成の凄さに毎回圧倒してしまいます……! 個人的に、知成と蝶子さんの仲がとても好みです…!そして蝶子さん、芯の強そうな女性だけど、とてもお優しい人なんでしょうね😌何回も角田さんの名前を間違えるのも好きです 知成はこれからどう行動していくんでしょう……気になりますね… 投稿ありがとうございました!次回も楽しみにしております!