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ぽーーーん
果林の手には彼方此方に貼って有った|chez tsujisaki《しぇ つじさき》スタッフ募集のポスターが握られていた。
(こんな低い時給で応募して来る人がいるなんて信じられない)
今回|ブーランジュリー《バケッド担当》の求人に応募して来た女性の名前は杉野恵美、髪をオールバックにトップで結えた清潔感のある面立ちだったが口紅の色が気になった。濃い赤紫、ボルドーの色味は男性受けしそうな《《いやらしさ》》が匂っていた。
(30歳、人妻パート、お小遣い稼ぎって感じなのかな)
ぽーーーん
辻崎株式会社新社屋ビルの1階はブティックや小物雑貨、飲食店などのテナントが入っている。果林はそのフロアの案内所や掲示板を回って|chez tsujisaki《しぇ つじさき》スタッフ募集のポスターを剥がしていた。1日の業務に疲弊しきった果林はこの華やかな場所に居心地の悪さを感じていた。
(みんな楽しそう)
25歳、同年代の会社帰りの女性が新作のワンピースを手に全身鏡の前でどちらにしようかと悩み顔だ。果林が左の薬指に結婚指輪を嵌めたのは23歳の秋。
(あぁ後悔、時すでに遅し)
「おつかれさまです」
フロアの奥まった場所に総合案内所が有った。
「お疲れさまです」
「あら、木古内さんまだお仕事ですか?」
「はい、残業で」
剥がしたポスターを掲げて見せるとアテンダントスタッフは「今度は長続きすると良いですね」と苦笑いをした。菊代の所業はこの会社内で知らない人は居ないのでは無いかとまで|囁《ささや》かれている。
ぽーーーん
背後の職員専用エレベーターの扉が開くと見覚えの有る男性が足を踏み出した。濃灰のスーツに紺のネクタイ、赤茶の革靴を履いた男性は社員証を首に下げた総務課部長と一緒にエレベーターから降りて来た。
(総務課の部長さんはエスプレッソにティラミス、あの男の人はアフォガート)
咄嗟に《《いつもの注文》》が頭を過ぎった。男性も果林に気が付いたのか会釈する部長に「いいよ、いいよ」という風に手を挙げて総合案内所に向かって歩いて来た。アテンダントスタッフがお辞儀をしたので小声であの人が誰かと尋ねたが分からないと答えが返って来た。
「こんばんは」
「いつもありがとうございます」
やはり社員証は無くスーツの襟元には社章が光っていた。
(誰なんだろう)
果林がぼんやりと間抜けな顔で社章を見上げているとその男性は手を差し出して来た。これまた意味が分からずその手のひらをぼんやりと眺めていると男性は困ったなといった面立ちで果林を見下ろした。
「果林さん」
「はい?あれ、なんで私の名前」
「あぁ、いつもパティシエに呼ばれているから覚えました」
「あーーーーーあれですか。お恥ずかしい」
「でもなぜ果林さんが彼に注意されているのか私には分かりませんが」
「私がのんびりしているからです」
すると男性は破壊力半端ない笑顔を見せた。
「いえ、果林さんの穏やかな雰囲気が好ましいと《《みんな》》言っていますよ」
(ん?みんなとは誰を?みんな?)
「そうですか、ありがとうございます」
「そうだ、私の名前を伝えていませんでした」
「名前、ですか」
男性はスーツの内ポケットを探してみたが名刺入れを忘れたと言い、また困ったなという面立ちになった。先程からこの男性は困ってばかりだな、と果林は思わず失笑してしまった。
「あ、ごめんなさい、つい」
「あぁ、名刺を忘れるなんて最悪ですね」
「最悪ですか?」
「最悪です」
男性はまた手を差し出した。これには鈍感な果林も流石に気が付きその手を握った。大きくゴツゴツした指、手のひらはやけに汗ばんでいた。
(緊張しちゃう人なのかな?)
軽く握手を交わすと男性は鼻先を指で掻きながら名前を名乗った。
「私の名前は|辻崎 宗介《つじさきそうすけ》と言います」
「会社と同じ名前ですね!」
「あーーーー、そうですね。そうとも言います」
「宗介さん、素敵な名前ですね」
「ありがとうございます」
宗介は顔を赤らめて横を向いたが果林の腕の中の物に興味を示した。
「それは」
「|chez tsujisaki《しぇ つじさき》のスタッフ募集のポスターです」
「拝見しても宜しいですか」
「はい」
「この募集、どなたか採用されましたか?」
「はい、明後日から出勤されます」
「そうですか」
そして眉間に皺を寄せた。
「|chez tsujisaki《しぇ つじさき》のスタッフの時給が970円」
「ちょっと安いですよね」
「これは宜しく無いですね、ありがとうございます」
すると背後で社員が宗介の名前を読んだ。
「果林さん、また明日」
「はい、またのお越しをお待ちしています」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
宗介は社員出入り口の自動扉の奥、黒い車の後部座席に座った。
「誰なんだ、謎。あっ、閉館時間になっちゃう!」
果林は慌ててエスカレーターを駆け上がった。