7.奇跡と呼ぶには早すぎる
夜1時を過ぎた頃、受付で眠ってしまっている看護師を確認すると足音を立てないようにこっそりと前を通り過ぎる。
凪の部屋番号は変わっていなければ109。
2階の凪の病室へと向かうとたしかに109号室には”凪誠士郎”の名札があった。
病室の取手にゆっくりと手を置き、扉を開ける。
そこには凪のよこでベットのシーツを握りしめて眠る潔世一の姿があった。
「潔…ッ!?」
慌てて引き返そうと振り向くと誰かとぶつかってしまう。
「…ッお前、御影か?」
ぶつかったのは潔の恋人、フランスで現在代表として活躍するサッカー選手の糸師冴の弟。
糸師凛だった。
「…潔の言う通りだったな。御影玲王。」
「離せ…てか面会時間なんかとっくに過ぎてんだろ。なんでいるんだよ…ックソ。」
凛は俺の腕をしっかりと掴んでいる。
後ろから名前を呼ばれてゆっくりと振り返ると潔は立ち上がっていた。
「やっぱり来た。」
凛は俺を押し込むようにして病室へと入れ込む。
「他の患者は今日の為に他の病棟に移した。こんなことができるほどの力を持つのは俺でも潔でもない。誰だか分かるか?」
少し考えてみた。一つ、嫌な考えが浮かんだ。
「御影コーポレーション…か?」
「玲王、ここで凪と終わろうとしてただろ。そんなことして、凪が報われるとでも思ってんのかよッ!?」
潔は俺に近づくと肩を強く押した。
凛が慌てて潔の肩を持って止めた。
それでも潔は涙と一緒に言葉を吐き出す。
「俺が憧れてた玲王はそんなのじゃない。凪の為に尽くして、凪の笑顔で幸せ感じて、凛の話しても嫌な顔せず笑ってくれて…凪が好きになったお前は…」
潔の真っ直ぐな視線に耐えきれず思いっきり潔を殴った。
手のひらが痛みで震える。
潔も驚いた顔で右頬を抑えている。
凛が舌打ちをして俺を壁に押さえ込んだ。
「何してんだよッ…!」
「もういいだろ…ヒーローごっこなら見飽きた。お前らは良いよな、幸せになれて。俺は凪と以外幸せなんかなれない。もう凪は戻ってこない。」
疲れた。何かを話すことももう疲れた。
ふらつく足取りで凪に近づく。
「凪…」
そっと凪の顔に手を添えた。
寝息を立てて眠る凪の目元は一向に開かない。
もう俺のことなんてどうでも良くなったのだろうか。
それなら起きてちゃんと振れよ。
崩れ込むように凪の手を握ると病室が勢いよく音を立てて開く。
俺の名前を呼んだ人物に見当はついた。
「玲王…ッ!玲王なのか…??」
「…玲王なの??玲王ッッ!!良かった、無事でほんとに良かったわ…。」
振り向かなくても分かった。
溜め息をついて警察に連絡を入れる父親と泣いて後ろから抱きつく母親。
吐き気がする。
「玲王、帰ろう。何があったのか、どこにいたのか話してほしい。」
「行こう。」と言って母が手を差し伸べてきた。
父親は潔と凛に頭を下げている。
「ありがとう、教えてくれて。この借りはいつか必ず返させてくれ。君たちもタクシーを呼んだから乗りなさい。本当にありがとう。」
潔と凛は黙って俺を見ていた。
目を逸らすようにして黙って母の後ろをついていく。
ここで抵抗したかった。
もう一度やり直したかった。
でも俺が逃げなかったのは凪がいるから。
凪が今目の前にいるんだ。
眠っている凪とは別の付き合ってた頃の凪が。
「玲王、行こう」
そういって手招きをしてくる。
凪のその笑顔に思わず足が動く。
もう凪は戻ってこない。あの笑顔は見えない。
終わりにしよう。凪。
「…潔。幸せか…、?」
そう問うと潔は凛と目を合わせて向き直すと黙って頷いた。
「もう満足だ。後はお前だけだぞ。俺たちはその為にここに来たんだから。」
結局俺は家に連れ戻された。
カウンセリングを受けて不眠症の薬を処方された。父とあの後話し合った。
日本代表としてサッカー人生を歩んだあの時の俺を父はまだ認めていない。そう言われた。
凪の話した。
凪の今の状態。今後の回復の見込み。
もしもの話をされた。
何も覚えていなかった。
凪が目覚めたと潔から電話がかかってきたのはそこから更に2週間後のことだ。