「紫雨さん」
林は完成現場見学会のテント脇に座り込んでいる紫雨に駆け寄った。
「どうしたんですか?具合でも悪いんですか?」
「んー、別に」
言いながらも立ち上がれない様子の紫雨は縁石に腰掛けたまま俯いた。
「ちょっと待っててください」
高齢者用にと準備していたパイプ椅子を持ってくると、林はそれに紫雨を座らせた。
「具合悪いなら、帰った方がいいですよ」
「そんなの余計具合悪くなるっつーの……」
「え?」
ため息交じりに呟いた紫雨の言葉は聞き取れなかった。
だが―――。
「紫雨さん――――なんか、痩せましたか?」
ビクッとするように紫雨が林を見上げた。
「あ、すみません。あの、深い意味はなかったのですが、その支えたときの腰が細くて」
林が紫雨の脇腹を触った。
「……っ」
「え?」
歪んだ紫雨の表情に、林は驚き手を引っ込めた。
「い、痛かったですか?」
「あ、いや、くすぐったくて…」
苦笑いをしながら見上げる紫雨の顔は、よく見れば目の下にうっすら隈が浮かんでいた。
「………紫雨さ――」
「紫雨ー、ちょっといいか!」
見学会に使う完成宅の中から室井が叫ぶ。
「来場者プレゼントについてなんだけどー」
「あ、はい、今行きます」
紫雨は何とか立ち上がると、少しびっこを引きながら完成宅に入っていった。
「?」
林はその姿を見ながら、眉間に皺を寄せた。
完成現場見学会は、3LDK、もしくは4LDKの完成宅のうち、引き渡しまでに外構工事まで終わっている家の中から選ばれる。
天賀谷展示場が当番である今回は、林のお客様が選ばれた。今年の初めに契約をいただいた長谷川ご夫婦だ。
30代、夫婦ともに会社員。
合算年収800万円。
分譲地の土地を買い、4000万円35年ローンで、42坪の4LDK。
まるで教科書に載っているような客層、間取りに、天賀谷展示場のメンバー総意で長谷川宅が完成現場見学会に選出された。
近隣の展示場の営業マンたちが、続々と自分の商談客を連れて現場にやってきた。
当番になっている天賀谷展示場のメンバーは、今日はサポート役だ。
スリッパを並べ、お客様に手袋と間取りを配り、靴を揃え、出てきたお客様に景品を渡す。
林は次々に現れるお客様と営業に布手袋を配りながら、相変わらずテントの中のパイプ椅子に座っている紫雨を眺めた。
「紫雨さん、具合悪いんでしょうか」
隣でスリッパを揃えている飯川に言う。
「最近なんか、元気ないよな」
飯川も横目でテントを見る。
「いつもの憎まれ口もないから、調子狂うよ。まるでいい上司みたいで」
言いながら飯川は笑ったが、林は笑わなかった。
確かに毒舌もほとんど出ていない。
彼が口を開くのは、|Q《クエスチョン》に対する|A《アンサー》。それだけだ。
「林さん、こんにちは」
林はいつの間にか目の前に立っていた人物を見つめた。
「長谷川さん」
そこに立っていたのは、この完成宅の家主だった。
「あれ、今日は仕事だから来れなかったんじゃなかったんですか?」
林は内心焦りながら、仲睦まじく並んでいるご夫婦を交互に見つめた。
「うん。そうだったんだけど、“なんかやっぱり気になるね”っていう話になって。ね」
夫人が夫を振り返ると、夫もニコニコと笑った。
「こんな機会なかなか得られないから、経験しておこうと思って」
飯川がスリッパを並べながら、林を見上げてくる。
―――おい、やばいぞ。
その目が話しかけてくる。
そう。完成現場見学会では原則家主を呼んではいけない。
それは躯体をみる構造現場見学会や、住み心地や使い勝手、光熱費などを見る入居者訪問とは違い、完成現場が往々にして“間取り”に重点を置いて見られるからだ。
間取りに正解はない。
お客様によってその目的もセンスも異なる。
それをくみ取りながら、さらに専門的なアドバイスを加えて形成されていく間取りは、いくら優秀な設計士が同席しても、いくら回数を重ねても、終わりもなければ絶対的な正解もない。
そんな中で間取りを見られる完成現場見学会は、家主にとっていい影響はない。
もし家主も来る場合は、時間を指定し、他の客と被らないようにするのが原則なのだが―――。
「ようこそ、お越しくださいました。さあどうぞ」
飯川がスリッパを手で示しながら一歩引いた。
―――来てしまったものは仕方がない。
林は慌てて自分も手袋を掛けると、夫婦の後に続いた。
「ほらー、十分明るいじゃない?」
夫人が嬉しそうに東側に作った和室に入る。
「リビングを南にするか、客間を南にするかでずっと悩んでたもんな」
主人もにこやかに和室を見渡している。
「十分十分。ほら、リビングを南側にして正解だったでしょう?」
夫人が得意そうに笑う。
林は二人を見比べて微笑んだ。
見学会に来たのは予想外だったが、自分たちの家をこういうふうに嬉しそうに眺めてくれる瞬間は、素直に嬉しいものだ。
「え、ちっさくない?」
そのとき、玄関からやけに大きい女性の声が響いてきた。
「ちいさっ」
男性の声も加わる。
林は数歩後退して、その客を見た。
大きなアルファベッドが印字されたぶかぶかのパーカーに身を包んだ夫婦だった。
夫の方はツートンで下を刈り上げちょび髭を生やし、女の方は金髪の髪の毛で毛先だけピンク色に染めている。
一見してセゾンの客ではない風貌に林は息を吸い込んだ。
「ほら、言ったべ?セゾンなんて高いだけで小さいから」
男が得意そうに言う。
「えー、でも床暖がいいー」
言いながら女が無遠慮にシューズクロークを開け放つ。
「今の時代、床暖なんてどこでもあるじゃん」
男の方がズカズカと上がりながらリビング、トイレなど、扉という扉を開けっぱなしにして確認している。
同席している営業スタッフはいない。近所の人か、それかチラシを見て来たフリー客のようだ。
「はは。狭い」
もう一度、笑いながら男が階段を上っていく。
「みろよ、これで42坪だぞ?話になんないだろ」
階段の吹き抜けを通して男が言うと、
女が「確かにー」と玄関ホールから叫ぶ。
家中筒抜けな会話に、長谷川夫婦が眉間に皺をよせ、他の来場客も苦笑している。
「てか階段踊り場ないんだけどー」
遅れて階段に足を掛けた女が笑う。
「これ、滑ったら下までノンストップじゃん」
叫ぶと、二階のどこかの部屋から、
「設計ミスですよー、セゾンさーん」
と男の声が続く。
階段については悩みに悩んで、将来的に車いすでも入れるトイレの広さを優先するがために、直線にせざるをえなかったのだ。
林は手袋を掛けた拳を握りしめた。
「セゾンは高いだけで狭いって。なあ?」
男と女が同時に階段を下りてくる。
「そりゃそうだ。あんなに広告費とってんだもん。やっぱり地元メーカーだよねー?」
女も頷きながら降りてくる。
と――――。
「セゾンの家はお楽しみいただけましたか?」
出口に微笑んだ紫雨が立っていた。
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