「楽しんだも何も。狭すぎてあっという間に終わりましたー」
男が靴を履きながら言う。
「お客様はどれくらいの大きさの家をイメージしておられるのですか?」
「さあ?どれくらい?」
男が女を振り返る。
「70坪くらい?うちの実家そんくらいだから」
女がガムを噛みながら言う。
「それにしたって狭いよな」
二人は笑っている。
「なるほど。じゃあまず床暖房は無理ですね」
紫雨は笑顔で女を見た。
「は?」
「床暖房は、輻射熱という特殊な熱を使います。これは床で温められた空気が、壁や天井で跳ね返り空間を温かくする暖房であって、ストーブやエアコンのように直射式とは違うんです」
「……だから?」
男の眉間に皺が寄る。
「だから、跳ね返る壁や天井に、それ相応に高い断熱性、気密性が求められるということです。
それが無駄に広く隙間だらけで断熱性の低い家であれば、輻射熱は逃げていくだけで跳ね返りもせず、一向に部屋は暖かくなりません。
電気カーペットを使った方がマシだと思いますよ」
「…………」
女が黙り紫雨を睨む。
「広くて安い家を非難しているわけではありません。でも床暖房は無理です。それだけはお伝えしようと思いまして」
さらに、と前置きをして紫雨はまた微笑んだ。
「セゾンで家を建てた方、今まさに検討中のお客様は、セゾンの性能を理解してくださっている。
そしてその上で、地元工務店と比べると割高な当社を選んでくださっている。
それは、建てたときには少々高くても、光熱費、メンテナンス費で十分にお釣りがくるという計算を理解できているお客様です。なおかつ、セゾンの家を検討できるだけの経済力がおありの方たちです」
紫雨は自分の襟元を軽く整えながら言った。
「土地があれば夫婦合算年収600万円以上、土地がなければ夫婦合算年収1000万円以上じゃないと、検討すらできません。もちろん私たちもお声がけ致しません」
その数字に二人がますます紫雨を睨む。
「今日ここにスタッフが連れてきているお客様は皆さん、セゾンを検討していただけるお客様です。
お二人はいかがですか?もしよければ私は本日フリーなので、性能や資金計画までご説明いたしますよ。
もしお客様が――――」
紫雨はそこで、夫婦を睨んだ。
「セゾンを検討できるお客様なら、ですけど」
「…………」
男の方が履きかけていたスニーカーを乱暴につっかけると、そのまま紫雨を突き飛ばすようにして、ドアを開けて出ていった。
「待ってよ……」
言いながら女も季節外れのミュールを履きながら後を追った。
ドアが閉まると、気密性と防音性の良い家は、シンと静まり返った。
「お見苦しいものをお見せいたしました。どうぞ引き続き、完成現場見学会をお楽しみくださいませ」
紫雨が頭を下げると、42坪の家にいた4組の客は一斉に拍手をした。
その中には家主である長谷川夫婦も入っていた。
林はほっと胸を撫で下ろしながら、拍手に照れてふっと微笑んだ紫雨を見つめた。
(……やばい)
林は夫婦に気づかれないように、拳を握った。
(これ、諦めるどころか……どんどん夢中になってしまう…)
◇◇◇◇◇
「まあ、いろんな人がいるよね」
高橋夫人は、景品を受け取りながら笑った。
「大変申し訳ありませんでした。お連れするお客様は確かな方に厳選しているのですが、フリーのお客様まで制限できなくて」
林は改めて建てたばかりの家を開放してくれたのに、嫌な思いをさせてしまった夫妻に頭を下げた。
「でも、スカッとしたな。君の上司の紫雨さんだっけ?」
主人もニコニコと笑った。
「上司は部下を選ぶけど、部下は上司を選べない。林さんは幸せ者だ」
林は背筋を伸ばした。
「はい。本当にそう思います。私なんかにはもったいない上司です」
その発言に二人は顔を見合わせて笑った。
「もったいない上司って初めて聞いたな」
「なんか、恋人みたいな言い方ね」
「え、あ、まさか…」
林は顔を赤らめて両手を振った。
「でも私たちは、ね、あなた」
「うん」
二人はまた顔を見合わせた。
「なんですか?」
夫人が上目遣いに林を見つめてくる。
「あなただから、セゾンさんに決めたんですよ?」
「―――え」
林は夫妻を見つめた。
(俺、だから?)
「そう。君の口から出る言葉の数は、確かに他のメーカーの営業マンたちと比べると、少なかった。すごく。
でも一つ一つの言葉に嘘がない。説明に誇張がない。的確にこちらが知りたいことを誠実に答えてくれているという感じがしたよ」
「いい意味で営業マンっぽくないって言うかね」
夫人も笑う。
「紫雨さんみたいな、見るからに“ああ~、上手だな~”って人に気持ちよく流されてみたいってのもあるんだけど、でも私たちは、できるだけ、自分たちで自分たちの立ち位置と気持ちを確認しながら家選びも、家作りもしたかったから。
だから、嘘のないあなたが、私たちのペースに合わせてくれるあなたが、とてもちょうどよかったの」
「………」
「それでいて、こちらの疑問には真摯に答えてくれるし。打ち合わせ中も僕らの視線の動きとか微妙なニュアンスをくみ取ってくれてね。痒い所に手が届く営業っていうのかなぁ」
主人も言葉を続ける。
「そういうお客さん、きっといっぱいいると思うわよ。情報社会に踊らされたくない。自分の目で見極めたい。でもわからないところや不安なところは甘えたいってワガママなお客様」
言うと夫人は、主人に絡めていた腕を外し、林の腕をポンと叩いた。
「だから、頑張って!林さん!私たち、あなたのファンなのよ!?」
主人も微笑んでいる。
「……ありがとうございます!」
林は腰を折って頭を下げた。
夫妻は持っていたコートを羽織り、帰っていった。
引き渡しは来週だ。
二人にとって最高の日になるように、今から準備しなければ。
林は12月の冷たい空気をすうっと吸って吐いた。
ガタン!!
(……なんだ?今の音……)
周りを見ても人はいない。
林は敷地の前にある受付のテントを覗き込んだ。
「紫雨さん!!」
そこには紫雨が、青い顔で椅子ごと倒れていた。
「どうした!」
お客様の靴を揃えていた室井と手袋を配っていた飯川が走り寄ってきた。
「紫雨さんが倒れて……。紫雨さん!」
抱き起すと、紫雨は笑いながら目を開けた。
「ごめんごめん、居眠りこいてたらひっくり返っただけだよ」
「そんな」
「マジだって。ちょっと寝不足なの。お騒がせしました、室井さん」
室井はまだ顔をしかめて紫雨を見ている。
「本当に大丈夫か?」
「ヘーキっす」
「気分は」
「眠いだけです」
充血した目で紫雨は笑った。
室井はあたりを見回した。
「林、お前の車、後ろの座席フラットになるんだよな」
「あ、はい」
「飯川。和室に持ってきた座布団のうち、一つ借りて来い」
「はい」
「室井さん」
紫雨が元マネージャーを見上げる。
「大丈夫ですって」
「いや、だめだ。少し休んでろ。林、車回せ」
「はい!」
林は少し離れた総合グラウンドに走り始めた。
(寝不足?昨日はまっすぐに家に帰ったはずだ)
車から降り、マンションに入っていった紫雨の背中を思い出した。
(そう言えば、昨日からちょっと歩き方、変だったかも……)
ハイブリッドセダンのドアを開ける。
(————)
林は自分の至った思考に凍り付きそうになった。
(……まさか)
室井の手前、紫雨は倒したシートに座布団を敷いた車に、大人しく乗り込んだ。
「じゃあ、駐車場に戻りますね」
言うと「はは、大げさ」と言って笑った。
林はバックミラーで、寝転がる紫雨の顔を見た。
やはり青白い。
「………………」
駐車場まで付くと、林は後部座席のドアを開け、寝転がる紫雨を見下ろした。
「この車ってすげえな。車中泊できるようにこんな形になるの?」
紫雨がヘラヘラ笑ってる。
「すげー…ベッドみたいで……きもちいー」
そのまま微睡み眠りに落ちていく。
「…………」
林はそっと自分も乗り込むと、後ろ手にドアを閉めた。
「紫雨さん。すみません………」
言いながらネクタイを緩める。
口を半分開けて寝ている上司の顔を見つめながらワイシャツのボタンを外す。
1つ。2つ。3つ。
「…………っ」
首には、キスマークと呼ぶには痛々しすぎる内出血が続いている。
軽く左右に開くと、それは鎖骨のラインにそって、いっそうひどくなっていった。
「…………」
ワイシャツのボタンを全部外す。
穴は一番内側なのに、やけに緩いベルトを形だけ外す。
スラックスのボタンを外し、チャックを落とし、ワイシャツの裾を出す。
シャツを左右に大きく開き、インナーを捲り上げて上半身を見つめる。
「なんだよ、これ………」
そこには赤いもの、青いもの、紫のもの、数えきれない内出血と噛み跡が散っていった。
震える手で、ワイシャツをさらに開く。
腰だ。
さっき、紫雨は腰を触ったとき、ひどく痛がっていた。
「………っ!」
そこには赤黒い打撲痕があった。
林は深い眠りに落ちている紫雨の横に、呆然と座りこんだ。
「これはいったい……」
改めてその痛々しい身体を見下ろす。
喧嘩?
違う。喧嘩で噛み跡なんてつかない。
一夜の遊びの相手にひどくされた?
違う。
痣は新しいものもあれば、古いものもある。
日常的に暴力を振るわれている証拠だ。
林は紫雨の足元にそっと跨がった。
「……紫雨さん」
ボクサーパンツに手を掛け、
「ごめんなさい」
それを引き下げた。
「……………」
それを確認すると、林は静かにパンツを戻した。
ワイシャツのボタンを上から丁寧に留めて裾をスラックスの中に綺麗に入れた。
スラックスのチャックを上げ、ボタンを留めた。
ベルトを形だけ締め、ネクタイをもとに戻した。
そこまで一気にすると、林は自分の目を手で覆った。
(俺は、紫雨さんを……守れていなかった!)
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