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「……カウンターテナーか」
久次は人気のない夏休みの廊下を歩きながら呟いた。
考えたこともなかった。
自分の指導する合唱部にそんな逸材が入ることを。
音域は女性のソプラノ、またはアルトに準ずるカウンターテナーだが、その声質は異なる。
天使の歌声と形容されるウィーン少年合唱団に代表されるボーイソプラノとも違う。
声変わりが終わった男の声だ。
当然女性よりも太い。
それでも高音が出るので、音に深みを残したまま、抜けるような爽快感がある。
「――――」
久次は両手を握った。
興奮していた。
そもそも瑞野を合唱部へ引き入れてしまおうというのは思い付きだった。
本当に男とのセックスが暇つぶしなら。
変なトラブルや病気に巻き込まれる前に、もっと学生らしい暇つぶしを、美術部との兼務で忙しくなった自分の雑用とともに提供してやろうと思っただけだ。
それなのに―――。
まさか、生きているうちに身近でカウンターテナーと出会えるとは。
しかも自分が指導できるなんて。
秋の高校合唱コンクール。
生徒達からの希望で“インテラパックス“に決まりそうだったが、もう少し検討してもいいだろうか。
そもそもあの曲は伴奏が難しすぎる。
中嶋にそれを弾ききる技能があっても、合唱と指揮と合わせられるかはまた別問題だ。
合えば最高に面白い曲だ。
しかし合わなければ―――。
最高に情けない曲でもある。
「――――」
実は久次の頭の中にはもうすでに一曲の曲が浮かんでいた。
もともとはドイツ、ロマン派の作曲家シューマンによって作曲された、四重唱曲だったが、近年では四部の合唱曲として演奏されることも多い。
原詩で語られているのは、ナイル川のほとりからスペインにたどり着き、さらにヨーロッパの街々を徘徊するロマの生活のもの悲しさだ。
石倉小三郎が和訳を手掛け、格調高い世界観が表現されたそれは、原詩を超えたと評されることも多い。
リズミカルにかつスピーディーに長調と短調が入り乱れる、激しく伸びやかな旋律は、人を惹き付けてやまない。
そしてその曲には……ソロパートがある。
♪愛し乙女 舞い出つ
♪松明赤く 照り渡る
♪管弦の響き 賑わしく
♪連れたちて 舞い遊ぶ
ソプラノから始まり、アルト、テノール、バリトンがそれぞれの歌声を自慢し合うかのように披露しあう。
ソプラノはパートリーダーの杉本をはじめ、優しい歌声の生徒が多い。
その声は正確で美しいが、主張と声量が足りない。
ソロを張れるほどの者はいないと諦めていたが―――。
もしソプラノパートをカウンターテナーである瑞野が演れるなら……。
「うーーーん。悩ましい……!」
久次は美術室へ歩を進めながら唸った。