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54 - 第54話 海老で鯛を釣る

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2024年11月16日

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正面入り口から入ると、エプロンをかけた職員が迎えてくれた。


「紫雨、秀樹さんですね?」

職員は微笑むでもなく、睨むでもなく、微妙な顔で紫雨と林を交互に見た。


「手続きはこちらで行っていただきます。身分証明書を持っていますか」


紫雨が林が貸したジーパンから財布を出し、免許証を提示した。


「少々お待ちください」


林は初めて入った老人ホームを見渡した。円形に作られた施設に部屋がたくさん並んでいる。


「……………」


「なんかさ」

紫雨が口を開いた。


「人間って人生の終わりには鶏ガラみたいになるんだな」


「———ちょ……何を言ってるんですか!失礼ですよ」


林が慌てて口を塞ぐと、紫雨は手の中でクククと笑った。


「でもさ、見て見ろよ…」


紫雨は広い中庭を指さした。


中央に十字に走る遊歩道があり、職員に車イスを押された利用者が口を開けたまま晴天を仰いでいた。


「ーーー幸せそうだぜ?」


「————」


林もその眩しそうに目を瞑る、横顔を見た。


「嫌なことは全て忘れてさ。ああいうふうに何にも考えずにさ。……楽ちんだろうな」



林は紫雨を見つめた。


雲が切れ、その白い肌に陽が差し込む。


「————っ!」


その姿が光の中に消えそうに見えて、林は慌てて彼の腕を掴んだ。


「ーーーなんだよ?」


紫雨が笑う。


「紫雨さん…!」


林は紫雨の手を握ったまま言った。



「俺が、幸せにしますから!今まで苦しかった分、耐え抜いた分、俺が、あなたを幸せにしてみせますから……!!」



「ーーーーーー」


紫雨の金色の目が丸く開いていく。


「———え。ナニソレ。プロポーズ?」


「————え、あっ……」



一気に顔が熱くなる。


慌てて俯いた林を見て紫雨は笑った。




「————“紫雨さん”?」



紫雨が笑いながら、自分を呼ぶ声に振り返る。



そこには、入所者の中では随分若い女性の車イスを押す、彼と同じ色の瞳を持つ女性が立っていた。



「………莉緒」


紫雨は口を開いた。


林は紫雨と、莉緒と呼ばれた看護師を見比べた。


看護学校。

看護師。


そうか。彼女は、紫雨の妹は、この特別養護老人ホームに常駐する看護師になったのだ。


「………今更、何をしに来たんですか?」


莉緒は紫雨をきっと睨み上げた。


ポニーテールに結わえた髪が軽く左右に揺れる。その髪の色も、紫雨と同じだった。


「ーーーーー」


紫雨は黙って莉緒を見下ろした後、彼女が押してきた車イスの女を見下ろした。


女はまばらに生えた髪の毛をやっとのことで後ろに一本に結んでいた。

意味もなく、紫雨を見つめ、ヘラヘラ笑っている。


その口から唾液が垂れ、それに気づいた莉緒が慌てて首に掛けたスタイでそれを拭ってあげた。


紫雨はツカツカと莉緒とその女に近づくと、その“鶏ガラ”のように痩せた膝の上に紙袋を落とした。


「———なんですか、それは」


莉緒が紫雨を睨み上げる。


「見舞い金」


紫雨が女を見下ろしたまま言う。


「結構です。それを持ってお引き取りください」


莉緒が唇を震わせる。


「見舞金はいらねぇか?」


紫雨が口の端を引き上げながら笑う。


「じゃあ、葬式代に回せよ」


「っ!」


莉緒が紙袋をぶんどると、それを紫雨の足元に向けて投げつけた。


それと同時に女がかけていたひざ掛けがひらりと床に落ちる。


「あんたからなんて、一銭も要らない!帰って!!」


老人ホームに莉緒の叫び声が響き渡る。


「…………」


林は掌を握った。


紫雨が普段、自分から進んでヒールになろうとする理由がわかるような気がした。


悪の元凶である伯母はもう何も覚えていない。


紫雨に守られた妹は、何もわかっていない。


ただ一人真実を知っている紫雨だけが、


何も悪くない紫雨だけが今、ヒールを、演じ切ろうとしている。


「………」


林は奥歯を食いしばりながら、床に落ちたピンク色の桜の柄が印字されたひざ掛けを拾った。


「紫雨さん」


それを莉緒と睨み合っている紫雨に渡す。


「これを掛けてあげましょう」


紫雨の視線が莉緒から林に戻る。


「これを掛けてあげて、帰りましょう」


その薄く涙が溜まった金色の瞳を見て、林の目からはまた涙が溢れてきた。


「“くたばれ、クソババア”って言ってやりましょう……!」


「何ですって?!」


莉緒が睨み上げる。



ヒールはなにも、一人じゃなくていいはずだ。


林は紫雨を見て微笑んだ。



「ふっ」


紫雨は笑いながら、ひざ掛けを受け取ると車イスの女に向き直った。


女が口元だけまだにやついたまま紫雨を見上げている。


その膝に全く似合わないピンク色のひざ掛けをかけると、紫雨は彼女の前に足を開いてしゃがみ、その顔を見上げた。


「…………」


何かを言おうとした口を、紫雨は封じ込めるように口を閉じた。


そして再び口を開くと、その女を見つめて言った。


「風邪引くなよ。クソババア」


紫雨を睨んでいた莉緒が目を見開く。


「……っ」


林は立ち上がった紫雨を抱きしめた。


「……勝ちです。あなたの、勝ちです……!!あなたは……海老で鯛を釣ったんですよ…!」


紫雨はふっと笑ったが、その肩に自分の顔を埋めて抱きついた。


「鶏ガラでお前を釣ったってことか?」


その言葉に、林も泣きながら吹き出す。


「林。キャッチ&リリースって知ってるか?」


「………連れ帰ってくださいよ」


林が顔を上げる。


紫雨も合わせて林を見つめた。


「ああ。帰ろうぜ」


紫雨は林の手を握った。



莉緒は二人を交互に見つめ、眉間に皺を寄せた。


散らばった札束を踏んづけながら紫雨は車イスの脇を抜けた。


林も後に続きながら、紫雨によく似たその瞳を見つめた。


「………」


莉緒の目がますます大きく見開かれる。


「……お兄ちゃん!!」


二人が出入り口まで差し掛かった時、後ろから、悲鳴のような莉緒の声が響いた。


「ハウスメーカーの営業やってるって本当?」


紫雨が莉緒を振り返る。


「私、結婚するの。だから……だから……」


莉緒は瞳を揺らして迷うように俯いたが、やがて顔を上げると、紫雨を見つめた。


「今度、夫と見に行っていい?」


紫雨は妹の顔を見ると、諦めたように息を吐いて笑った。


「夫婦合算年収、800万円以上ならな」


先ほどとは打って変わって“看護師”の顔から、“妹”の顔になった莉緒は、呆れたように、しかし少しほっとしたように微笑んだ。


自動ドアが閉まる。


紫雨の負け戦は、劇的な勝利を飾りながら幕を閉じた。




「いつまで泣いてんだよ」


紫雨は袖をぐしょぐしょに濡らしながら泣き続ける運転手に向かって呆れながらため息をついた。


「だって……だって……」


言いながら感極まった林は、ハンドルをバンバンと叩いた。


「妹さん、すごい似てましたね」


「え、それ今言うこと?他になんか言うことないの?………でも、篠崎さんの妹はもっと似てるぞ」


紫雨が笑うと、林はハンドルを握ったまま、真顔でこちらを向いた。


「ナニ?」


「いえ」


「言えよ」


「いえ、別に」


「…………」


紫雨は林を睨んだ。


「もしかして、まだ気にしてんの?篠崎さんのこと」


「…………」


どんどん赤くなっていく顔に、紫雨は笑った。


「俺のこと、幸せにしてくれるんだろ?落とすんじゃねえの?」


林はハンドルを握ったまま、泣きすぎてぼやけて見た視界でなんとか前方の道路を睨みつつ、口を開いた。


「……落とす努力を、してもいいですか?」


「うーん」


前方の信号が赤に変わる。


林はため息をつきながらブレーキを踏んだ。


(……やっぱり、難しいよな)


車が停車した瞬間、紫雨は自分のシートベルトを引いて緩めた。


「え?」


距離を詰めると、林の襟元を掴んでぐいと寄せた。


「……んんっ!?」


唇が重なる。


林は目の前にある金色の瞳を見つめた。


「無理だな。……もうとっくに落ちてるから」


紫雨は林の首に両腕を回すと、自分のシートに引き込み、思い切り唇を合わせた。





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