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事務所に戻った紫雨は、何とはなしにシューズクロークに手をついた。
「痛っ」
慌てて手を引っ込めると、指先を見た。
「やっちまった、クソっ」
言いながら逆の手でスリッパを掴み、投げ捨てるように框に置くと、紫雨は右手を庇いながら自席まで戻った。
「あー、クソ、見えねえな」
ぼやきながらいろんな角度から覗き込んでみるがうまくいかない。
と、
「手袋しないでやったんですか?」
林が見積もり表から顔を上げずに言った。
「ポールのグラスファイバーには、目に見えない小さな棘が付いてるから、気を付けろって言ったの、あなたですよ」
「……うっせえなぁ」
紫雨は自分のデスクを軽く蹴った。
と向かい側に座る飯川がビクッと反応する。
「紫雨さん、俺、毛抜き持ってますけど?」
「マジで?貸してよ」
紫雨はチェアの上で足を折って、膝を立てながら、手を乗せた。
「しかし飯川、なんで毛抜きなんか持ってんの?」
「いや、たまに、皮膚の中に入り込んでいるヒゲを引っ張り出すために」
紫雨は部下でありながら、自分より老けて見える飯川の薄い頭と、やけに濃い髭に目を細めた。
「やっぱいいわ」
ため息をついて椅子に凭れながら目を瞑った。
後頭部がまだ痛む。
酒は弱くないはずなのだが―――。
「あれかな。酒飲んですぐ激しくしたのが悪かったのかな」
「…………」
「…………」
つい唇から漏れた独り言に、部下二人が固まる。
(別にいいか。俺がゲイなんてもはや誰でも知ってるし)
思いながらデスクに突っ伏す。
冷たい感触が頬に気持ち良い。
紫雨はそのまま目を瞑った。
紫雨が目を開けると、いつの間にか自分の右手は天井を向けられ、誰かの温かい手に包まれていた。
顔を上げる。
営業の60を超えた嘱託社員の老輩たちはいない。
先ほどまでいたはずの飯川もいない。
設計もインテリアも工事課もいない。
さらに見上げる。
自分の手を包み、その指に先の細い毛抜きを這わせていった林がこちらを見下ろす。
「言っとくと、綺麗ですよ。新品ですから」
無表情のまま、紫雨の人差し指に刺さった、透明な棘を抜いていく。
「……………」
「今度から懸垂幕やるときは、俺に頼んでくださいね」
無表情で棘を抜く林が続ける。
「新谷君は、もういないので」
「!」
紫雨はその手を振り払うと、6つ年下の部下を睨んだ。
「なんだそれ。嫌味のつもりかよ。俺は別に新谷がいなくなって寂しがってるわけじゃ………」
林がその視線を紫雨の瞳から少しだけずらした。
「……紫雨マネージャー」
「ああ?」
「キスマークついてます。首筋のとこ」
「…………」
紫雨は林の視線が降り注ぐ首元を抑えた。
「てめえに関係ねえだろ」
「………」
言うと、林は毛抜きを軽くティッシュで拭きとり、専用ケースに入れた。
「そうですね。すみませんでした」
言いながらスタスタと何の感情も示さず、席に戻っていく。
(なんだこいつ。ホントにわかりにくい)
紫雨は目を反転させてまた椅子に凭れかかった。
(新谷とは正反対のタイプだな。あいつみたいに、わかりやすくて、からかい甲斐があって、反応が面白くて、まっすぐで、一生懸命で………)
「はあ――」
紫雨はデスクに顎をつけてため息をついた。
(可愛かったなー。新谷……)
そこでポケットに入れっぱなしだった、携帯電話が鳴った。
『昨日は良かったよ、ヒデ』
「………」
画面を右手でスクロールさせる。
『もしヒデさえよかったら。今夜も、どうかな』
→『いいよ。どこに向かえばいい?』
『俺が迎えに行ってあげる』
→『別にいいのに』
『お姫様は王子様が迎えにいくもんだろ?』
「……げ。これ、また俺がネコ?」
思わず声に出して呟いていた。
お姫様=ヒデということは、今夜もヒデは女役だということだ。
(まあ、いいか。あいつ、別に下手なわけじゃないし)
ふうと息を吐いて、紫雨は、携帯電話を傍らに置くと、システムを再度起動させ、プレゼンファイルを開いた。
マウスをクリックした右手は、もうチクチクと痛むことはなかった。
◇◇◇◇◇
荒い息遣いと、行き場をなくした指が、乱れたスーツの上を滑っていく。
「家まで迎えに行くっていったのに」
胸元に顔を沈めていた男が、上目遣いに見つめる。
「……はは。冗談」
(なんでセフレごときに家を教えなきゃいけねえんだよ)
さすがに興ざめレベルの毒舌は、セックス中には吐かないようにしている。
「なんで?俺には家を教えたくない?」
男は紫雨の胸に舌を這わせながら上がってくる。
(上がってくんな。下りろよ)
仕方なく男の瞳を見つめる。
「俺、ヒデの目が好きだよ。なんか色が薄くて。外人みたい」
「……そう?」
「色も白いし。白人の血でも入ってんの?」
「さあね」
黙らせるために仕方なく、紫雨は目を伏せ、男の頬を軽く手で撫でると、自分の唇へと導いた。
唇から、濡れた音が漏れる。
舌から欲が溢れ落ちる。
「ん……」
キスをするとき、紫雨は必ず、相手の頬に触れながら、目を瞑る。
その顎のラインを確認し、それが女じゃないことを確認する。
目を瞑り、唇を合わせているのが、大して魅力的でもないセフレの1人であることを忘れる。
そう。
目の前にいて、自分の唇を奪っているのはーーー。
『紫雨……』
あいつだ。
やっと離れた唇が首元を強く吸う。
「っ!痕つけんなって」
紫雨は低い声で言った。
「昨日もつけただろ」
「へえ?」
男は意味深に笑った。
「自分じゃ見えにくいところにつけたんだけど。誰に気づかれたの?」
「……部下に」
吐き捨てるように言う。
「マジ?あはは」
男は一瞬キョトンと目を見開いたが、声を出して笑った。
「笑い事じゃねえっつの。部下だったからよかったけど、上司だったら俺、怒られるんだからな」
「なんで?」
「なんでって―――」
「ねえ、ヒデ。そろそろ何の仕事してるのか教えてよ」
男の唇が胸の先端をとらえる。
舌先で刺激しながら、こちらを見上げる。
「高そうなスーツをバリッと着てるから、法律系かなって睨んでるんだけど?」
「んん……。うっせえよ。告訴してほしいの?」
「あれ、もしかして当たり?まさかね」
絡んだ舌が、硬くなった先端を吸う。
「ここも色素が薄くてさ。綺麗だよね」
唇を離し、指で弄ぶ。
「………ん……」
刺激に腰が疼き、頬を枕に沈める。
「色っぽいなあ」
男は笑う。
「俺はヒデの部下に嫉妬しちゃうよ。だって、そいつは知ってんだろ?ヒデの本名も、職業も、年齢も、家族構成も。もしかして家まで知ってる?」
言いながら男の少し汗ばんだ手が、ベルトを外した紫雨のスラックスの中に入ってくる。
「いいなぁ。俺だってもっともっと、ヒデのこと知りたいのに……」
「……馬鹿じゃねえの」
紫雨は腕で両目を覆ってため息をついた。
「俺とセックスしてるあんたのほうが、俺のことたくさん知ってんでしょ」
言うと、笑った男の息が腹にかかった。
「うまいなぁ。そういうことにしといてあげるよ」
男の舌が下ろしたブリーフの代わりにそれを包んだ。
「んん……」
(……あ、違うわ)
林の無表情な顔が脳裏に浮かぶ。
「は……あっ」
(あいつともセックスしたことあった。そういえば……)
紫雨は普段は鉄火面の林が、自分とセックスをしていたときにどんな顔をしていたか思い出そうと記憶を探ったが、それはすぐに快楽の渦の中に飲み込まれていった。