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その日の夜、篠崎の口から正式に、土日の天賀谷遠征についての説明があった。
①土曜日に新谷、日曜日に渡辺が、天賀谷展示場に行って、新規客の獲得をするということ。
②その日には契約済みの客との打ち合わせは極力いれないこと。
③展示場を貸してもらうのだから、朝は天賀谷展示場のメンバーより早く出勤し、一番最初に掃除をはじめ、失礼のないようにすること。
④朝は直行でいいが、夜は必ず時庭展示場に帰ってくること。
「以上だ。質問は」
篠崎は秋山から送られてきたファックス用紙を読み上げると、由樹と渡辺を交互に見た。
「いえ」
「ないです」
渡辺と由樹が答えると、それをドンとデスクに置いて、椅子にドカッと座った。
やはり機嫌が悪いのはこのことが関係しているらしい。
由樹はこっそり渡辺と目配せをした。
「明日は土曜日だから新谷だな」
言うなり篠崎は立ち上がると、ホワイトボードに向かった。
そこには営業社員の行動がリアルタイムでわかるように、全員の名前と、「新規接客」「打ち合わせ」「外出」「商談」のマグネットが貼ってあった。
篠崎は手を伸ばすと、その中の「新谷」を取った。
「ほら」
慌てて駆け寄る。
篠崎の鋭い視線と目が合う。
「……紫雨のことは、秋山さんにちゃんと言ってあるから大丈夫だ。もうお前に変なことしないように厳重注意してある」
篠崎が後ろにいる渡辺にも聞こえないような小さな声で言った。
「あ、ありがとうございます」
言いながらも、日中に会った紫雨の全く反省していないような顔を思い出して、由樹は心の中でため息をついた。
「あんなやつ気にせず、思いっきり接客してこい」
篠崎はマグネットを由樹の手に握らせた。
(……あ、熱い)
篠崎の温度を感じながら触っていると、
「一度しか言わねぇからよく聞けよ」
篠崎がいつになく真剣な顔をして由樹を見下ろす。
「俺、お前のことを……」
(……え)
由樹は凍り付いた。
(何言おうとしてんだ、この人……)
『かわいいかわいい新谷君をさ……』
渡辺の言葉が蘇る。
『俺の依頼、君の上司が全部突っぱねてるのかな…』
紫雨の声が耳奥で響く。
(え。うそ……。篠崎さんって、もしかして、本当に俺のこと…………)
「俺は、お前のことを、尊敬している」
……ソンケイ…?
意外過ぎるその言葉に由樹の脳みそは漢字変換するのに時間がかかった。
「あっ、尊敬、ですか?」
やっとのことで返事をすると、篠崎はまだ由樹を睨んだまま言った。
「お客様一人に対する熱意、一棟に対する気持ちの重さ、それに限定して言えば、お前はこの支部でもダントツだ」
篠崎の言葉に、後ろから渡辺が口笛を鳴らす。
「何かの判断を迷ったとき、誰かに何かを否定された時……。迷うな。騙されるな。お前はお前の信念にのみ従えよ」
(え。俺ってただ近くの展示場に出張に行くだけだよね……?)
まるで悪の巣窟にでもいく勇者を諭す魔法使いの老父のようなことをいう篠崎の顔を見上げる。
「お前は、お前のままでいい」
言いながらその熱い手が由樹の手を包む。
「頑張れよ」
「……ありがとうございます」
言うと篠崎は視線を下げた後、「展示場閉めてくる」と言い残し、事務所のドアから消えて行ってしまった。
「すごーい、褒められたじゃん」
渡辺がパチパチと丸い手を合わせる。
「あ、あはは。どうしちゃったんですかね、篠崎さん」
照れながら頭を掻く。
「いやいや、新谷君のことを認めてるんでしょ。素直に喜びなってぇ」
渡辺は微笑んだが、少しだけ顔を曇らせた。
「……でも確かに、篠崎さんの言い方は変だったよね」
「変?」
「明日だけのはずなのにさ、なんか今生の別れみたいだったっていうか…」
(……たしかに)
由樹はモニターを見上げた。
そこには戸締りをするどころか、バルコニーに出て、夕闇に染まっている西の空を眺める篠崎の姿が映っていた。