「大丈夫ですか?」
様子のおかしい林を新谷は覗き込んだ。
「えっと、この数分間にまた何か、ありましたか?」
苦笑いをしている。
「……めでたい奴」
林は呟いた。
「何かあった、なんて可愛いもんじゃないんだよ」
「え、あ、林さん」
「展示場の和室」
林は新谷の脇を抜けた。
「自分の眼で確かめて来いよ」
「……………」
「—————」
「………何してんの」
新谷は林の手首を掴んでいた。
「あはは、なんとなく…」
言いながら新谷は微笑んだ。
「一人にしちゃいけないような気がして……」
「————っ」
林は自分が涙を流していることに、そこで初めて気が付いた。
「俺どころじゃないんだよお前は!!和室に行って見て来い!お前の恋人が……」
そこで新谷の携帯電話が鳴った。
腕を振り払おうとしたが、異様なほど強い力で掴まれ、外れない。
「新谷です。あ、篠崎さん」
新谷が視線を展示場に投げる。
(早速恋人に弁解の電話か。そんな最低な男だったとは……)
林はもう一つの手を使って新谷の指を一本ずつ剥がしにかかりながら、その電話を睨んだ。
「え……」
新谷の顔が曇る。
「わかりました」
そして視線を林に戻した。
瞳に先ほどまではなかった深刻さが宿っている。
「さっさと和室に行って、恋人の弁明でも弁解でも聞いてや――」
「来て。林さん」
林の腕を掴んだまま、新谷は走り出した。
「あ、ちょっと……!!」
この華奢な体からどうしてそんな強い力が出るのかわからないまま、林は展示場に引きずられていった。
「俺は関係ないだろ。あんたら3人の問題だ…!」
新谷は林の言葉には答えず、勢いよく展示場のドアを開けると、ぐんぐん奥へ進んでいった。
「おい……!おいって!!」
新谷は少し開いていた襖をあけ放った。
「紫雨さん!!」
やっと林を離した新谷が倒れ込むように和室に飛び込む。
「?」
誰かの激しい息遣いがする。
「救急車呼んだ方がいいのか?これは―――」
篠崎の声がする。
「………?」
異様な空気に林は襖の影から、和室を見下ろした。
中央に、紫雨が先ほどとほぼ同じ姿勢で倒れている。
しかしその手はもう、篠崎にしがみ付いてはいない。
「いえ、過呼吸だと思います」
(過呼吸?紫雨さんが…?)
林も思わず駆け寄った。確かに顔面が蒼白で、唇が青い。
新谷が紫雨の背中に膝を入れ込み、少し抱き起した。
「紫雨さん、聞こえますかぁ?」
今まで全速力で、しかも抵抗する林を力づくで引っ張ってきた新谷は、それでも落ち着いたいつもの能天気な声を出した。
「ただの過呼吸ですよ」
紫雨を覗き込みながら新谷は微笑んだ。
「“大丈夫。死なないから”」
「…………」
苦しさに涙を流していた紫雨の瞳が新谷を見つめる。
「あなたが教えてくれたんですよ。ね、落ち着いて。あなたは過呼吸になった時の呼吸法を知っているはずです」
落ち着かせるようにゆっくり、何でもないことのようにいつもの声色で、新谷が紫雨を覗き込む。
「吐くのが大事なんですよね。あなたがやってくれたように手伝いますから。吐いてみましょう。はい、10秒で全部吐き出しますよ、ゆっくり」
10,9,8,7…………。
新谷の静かなカウントダウンが始まる。
その手が紫雨の背中を下からゆっくり撫でる。
紫雨の膨れ上がった胸が、萎んでいく。
3,2,1…………
「吐けましたね。もう大丈夫ですよ。はい、ゆっくり吸って。吸ったらまた10秒かけて吐きます」
まるで催眠術でもかけるような新谷の優しい声が和室に響く。
それに合わせて紫雨の胸がまたゆっくりと上下する。
苦しさに見開いていた目が徐々に細くなっていく。
「もう大丈夫。紫雨さん、落ち着いて呼吸して。苦しかったですね。でももう終わりましたよ」
新谷が言うと、篠崎が傍らにあった座布団を重ね、新谷の膝の代わりに紫雨の背中に入れ込んだ。
紫雨の顔に色が戻っていく。
青かった唇が薄い桜色に治っていく。
「病院に連れて行かなくて大丈夫なのか?」
小声で篠崎が新谷に聞く。
「大丈夫だと思います。過呼吸は病気じゃないので」
言いながら優しく寝かせると、紫雨は瞳を閉じて座布団に前髪を垂らし、静かな寝息を立て始めた。
「……焦ったよ。急に苦しみ出すから」
篠崎が大きく息を吐いた。
「やっぱり紫雨さん、経験あったんだな。俺が前に過呼吸を起こしたときに、紫雨さんが助けてくれたんですけど、すごく慣れてる様子だったから、もしかしたらって思ったんですけど」
「なりやすいとか、あんのか」
「まあ、誰にでもなりえるんですけど、やっぱり一度なったら癖になったりもするみたいです。あとは―――俺も詳しくは知らないんですけど、疲れていたり寝不足だったり―――あとは急激にストレスを感じたりすると誘発させるみたいです」
新谷が紫雨を見下ろしながら言った言葉が、全て林を突き刺した。
昼間は重なる受注、打ち合わせ、商談に疲れていた。
それなのに毎晩、林が貪るように紫雨を襲ったせいで寝不足だった。
そして階段下で急激なストレスを――――。
「全部、俺の、せいだ……」
林はその場で座り込んだ。
「…………」
篠崎が林を見下ろした。
新谷も林を見下ろし、二人で目を見合わせた。
「林、お前目が覚めるまでついててやれよ」
篠崎が紫雨にしがみ付かれて乱れたワイシャツを直しながら言った。
「……はい」
「おかしいところがあったら叫べよ。事務所のドア開けとくから」
二人はまた視線を合わせ、和室から出た。
遠ざかる足音に、紫雨の穏やかな寝息が混ざる。
(ごめんなさい……紫雨さん…。ごめんなさい)
林は涙を流しながら、その手を握った。
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