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「あれー?早いね」
土曜日、天賀谷展示場に掃除機をかけおわり、階段下に収納しようとしていたところで紫雨が現れた。
(この人、素で音を立てないんだな…)
接客の最中には足音を消すことが身についていた由樹でさえ、彼の足音には気づかなかった。
「おはようございます!本日はよろしくお願いしま……」
「あーはいはい」
きちんと挨拶しようと思ったのに、紫雨は面倒くさそうに掌をヒラヒラと振った。
「そーいうのいらないから。あと掃除もみんなでやるから、早く来なくていーよ」
笑いながら、階段に腰を掛け、楽しそうにこちらを見下ろす。
「そういうわけには。篠崎マネージャーにもきつく言われてきましたので」
心なしかマネージャーという単語を強調して言ったが、紫雨はどうでもいいように笑った。
「君んとこの上司は、結構硬いんだねー。ちょっと、がっかり」
言いながら、だるそうに首を回す。
「金稼ぎに来てるだけなんだから、楽にいきましょー。楽に」
「…………」
(やっぱりこの人、苦手だな……)
紫雨は立ち上がり、由樹を正面から見つめた。
「ときに新谷君、君ちょっと変わったよね?」
「俺が、ですか?」
「うん。なんかちょっと……」
その手が由樹の頬に触れる。
「生意気になった感じ?」
紫雨の目が細くなったところで、
「紫雨リーダー」
後ろから声がした。
「高堂の今野さんからお電話がありました。折り返すと伝えましたが」
林が紫雨と由樹を交互に見ながら言った。
「はいはーい」
言いながら紫雨は胸ポケットからスマートフォンを取り出し、階段に足を掛けた。
外はハウジングプラザの音楽が大音響で鳴り響き、事務所は電話をしている人間が多いため、客との通話はよく展示場の2階を使う。
そんなところは時庭と同じで、由樹は少しだけほっとした。
「そうだ。接客のバッター順だけど」
紫雨が由樹を振り返る。
「新谷君は、俺のすぐあとね。これ、支部長の指示だから」
「え、あ、はい」
「んじゃ、よろしくー」
軽やかに階段を上っていく後ろ姿を目で追いかけた。
「もしもし。セゾンの紫雨です。この間はありがとうございました」
一瞬見えた紫雨の笑顔が視界から消えても、由樹は階段の踊り場を眺めたままため息をついた。
「……あの人も黙ってりゃめちゃくちゃカッコいいのになぁ」
つい本音が飛び出し、由樹は首を横に振った。
(誰があんな最低な奴!!篠崎さんの方が100倍……いや、1000倍、カッコいいわ!!)
一人憤りながら振り返ると、そこには先ほどと寸分も違わない表情で林が立っていた。
「新谷君だっけ」
明らかに棘のある言葉を受けながら、由樹は苦笑いをした。
「はい!毎週土曜日、よろしくお願いしま―――」
「あのさ」
由樹の言葉を遮り、林はこちらを睨んだ。
「誰も歓迎してないから。君たちがこの展示場で接客すること」
「…………」
(そりゃあ新規獲得の件数が減るんだから、天賀谷展示場にとっても死活問題なんだろうけど……そんなこと、俺に言ってもしょうがなくないか?)
「すみません」
一応形だけ謝ると、林はため息をついた。
「野放しにしてないで、首に縄付けて時庭に縛り付けとけばいいのに。ったく。使えねぇな、あいつも」
「え?」
言うと林は踵を返し、事務所に入っていってしまった。
「……え?」
(今のってまさか、篠崎さんのことを言った?)
由樹は混乱して展示場の吹き抜けを見上げて考えた。
(あれ?林さんって確か、篠崎さんのこと好きなんじゃないの?)
2階の廊下の向こうに寝室が見える。
(そうだよ。この寝室でさ、紫雨に犯されながら、篠崎さんのこと好きだって言ってなかった?あれ?違ったっけ?)
由樹は視線を戻し、ウォールナットでできた用具入れのドアを見つめた。
「……どういうこと??」
2階からは、客と話す紫雨の高らかな笑い声が響いていた。
天賀谷展示場のメンバーは、営業7人、設計2人、工事課3人、インテリアアドバイザー2人の計14人で、時庭展示場と比べると、2倍以上の大所帯だ。
営業のメンバーは定年を控えている室井マネージャー、紫雨リーダー、飯川、林の他は、室井と同い年の営業が1人、あとの2人は定年を終えた嘱託の社員らしい。
由樹は臨時的に用意された秋山の向かい側のデスクに腰を下ろすと、カタログを眺めるふりをして空気を伺った。
「あー、やべぇ。見積もり間違ってた」
営業の中では一番離れた席に座っている紫雨が椅子に凭れながら舌打ちをする。
「どれすか?」
飯川がわざわざ席を立って、紫雨の隣に並ぶ。
「ここだよ。30万も間違ってる。あの外構業者がさっさと見積もりよこさねえから、焦って間違ったよ。ったく、使えねぇ。クソだな」
「ああ、あそこ、いつも遅いすよね」
飯川は首を前に出すような不思議な頷き方で苦笑いをした。
この人物も、先日は紫雨や林の関係のことを嫌そうにしていたのに。表と裏で全く顔が違う。
「この客うるせーんだよなー。たかが30万くらいでピーピー騒ぐなっつの。これだから貧乏人は嫌になるよ。なあ?」
言いながら見積もりをデスクにたたきつけて紫雨が首を回す。
視線をそっとデスクの上に戻し、由樹は小さく息を吐いた。
先ほど垣間見れた林の口の悪さは、十中八九、紫雨が影響を与えているらしい。
この横暴な態度に対して、室井マネージャーも何も言わない。他の職員たちと同じく、黙ってパソコンを睨んでいる。
(篠崎さんも口は良いほうじゃないけど、お客様とか業者の悪口は、絶対言わなかったのにな)
地盤調査の時に教えてくれた知識や、丁寧でわかりやすい説明は、さすがだと思い、性格に難はあれど、営業マンとしてはそれなりにデキる人だと思っていたがゆえに、由樹はショックを受けた。
「30万は大金ですよー。紫雨さんくらいの高給取りになると、違うんでしょうけどね」
飯川が、わざとらしく目を細める。
「今回、夏のボーナスどれくらいもらえるんですか?」
「んーと、今のままだと、350万」
由樹は思わず彼を二度見した。
(今、何て言った?)
「俺、どうしても欲しい車があって―。400は行きたいから、最低、あと1棟だわー」
「…………」
由樹はまたデスクに目を落とした。
(そうか。そんなに高いのか、ハウスメーカーの給料というのは…)
篠崎が車検を受けずに車を乗り替える理由もわかるような気がした。
と、駐車場に黒のマジェスタが停まった。
紫雨がブラインドを少しだけ開けて外を見る。
「やべ、おいでなすった」
飯川が慌てて席に戻る。
林も背筋を伸ばす。
ガチャッ。
「おっはよー」
秋山が顔を出した。
「おはようございます」
全員腹からの声を張り上げる。由樹も慌ててそれに続いた。
「お、来てるね、新谷君」
言いながら秋山はいつもの笑顔で靴を脱いだ。
「はい!よろしくお願いしま……」
「ところで」
言い終わらないうちに秋山が紫雨を中心とした営業メンバーを振り返る。
「展示場の玄関前。アシナガバチが巣を作ってたよ。あんなに大きくなってるのに掃除のとき誰も気づかなかった?」
慌てて紫雨が立ち上がる。
「すみません!!」
「うん。営業7人もいて、14個の目玉ついてんだから、そういうの見逃さないで」
「はい!」
「今すぐ駆除してきて。ついでに他にも巣がないか見てきて。蜘蛛の巣も同様」
「はい!!」
全員が立ち上がると、我先にと事務所から出ていった。
慌てて続こうとすると、秋山は由樹の腕を掴み、椅子に座らせた。
「君はいいから。時庭の人間でしょ?」
言いながら暑いのかワイシャツの腕を捲っている。
「コーヒー淹れて?新谷君」
「あ、すみません、気づきませんで!」
由樹は慌てて台所に立った。
(なんだ、この威圧感……)
「僕のカップ、有田焼のやつね」
「あ、はい!」
慌ててそれをコーヒーメーカーにセットする。
(篠崎さんといるときは、こんな威圧感、感じなかったんだけどな…)
デスクにコーヒーを置くと、秋山は「ありがと」と言って、頬杖をついてじっと由樹を見つめた。
「……あ、あの、何か?」
「いや?」
「……?」
「天賀谷展示場、君に似合わないなーと思って」
「え」
由樹は固まった。
(それってどういう意味で言ってるんだろう…)
秋山はやっと由樹から目を離すと、コーヒーを美味しそうに啜りながら言った。
「バッター順のことは聞いた?」
「あ、はい。紫雨リーダーの後ですね」
「そう。そうして」
「…………」
(理由を聞いた方がいいのだろうか)
由樹は突っ立ったまま秋山を見下ろした。
「どうしたの?座れば?」
「あ、はい!」
恐る恐る向かい側に座ると、秋山はバッグから書類をデスクに広げながら話し出した。
「ここでの接客は、紫雨のを見るといいよ」
「え?」
「勉強になると思う。彼、凄いから」
「あ、はい」
半信半疑で由樹は返事をした。
(さっきの雰囲気からして、”凄い接客”ができるとは思えないんだけど……)
「他の営業はね、一切見なくていい」
言いながら秋山はパソコンの電源を入れた。
「年配者たちの接客は真似できないし、昔の知識で話してるから、今の若い子たちには通じない。
室井もトークじゃなくて人柄で売ってるから。既存客の紹介ばかりで、新規への接客はもう全然だめ。
かといって飯川なんて、勉強サボってるから知識もなければ愛想もなくて最悪。
林はマシになってきたけど、まだまだだな」
小さい口からどんどん繰り出される毒のワードに由樹は唖然とした。
秋山はやっと視線を由樹に戻すと、言い放った。
「この展示場は紫雨が全てだから。彼にくっついて学んでね」
「……はい」
由樹は戸惑いながら彼の小さな目を見た。
入社したての頃、
「紫雨リーダーには気を付けてね」
と言った同じ口から出たとは思えなかった。
「でも変なことされたらすぐに僕に言うこと。わかったね」
「……ありがとうございます」
秋山はまた視線を由樹から逸らすと、あとは黙ってキーボードを打ち始めた。
「ははは。お前、蜂に刺されていっぺん死ね!」
外からは紫雨の壮大な笑い声が、防音ガラスを突き抜けて聞こえてきた。