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間取りを頭に入れ接客の流れをイメージするために、由樹は無人の展示場をぐるぐると見て回った。
秋山の話では土日ともなると、最低30件の来店はあるらしい。7人の営業で回すから、1人あたり4、5件を相手することになる。
(1日にそんなにいっぱいできんのかな)
少し憂鬱になりながら和室の床柱に寄りかかった。
「……その木の名前、わかる?」
「うわっ!」
悲鳴を上げながら振り返ると、廊下から紫雨が楽しそうに覗いていた。
(テンテンだからなんでこの人、足音しないの?!)
由樹はドクドク鳴る心臓を抑えるように胸に手を当てた。
「わ、わかりません!」
「えー?」
言いながら彼が近づいてくる。
「勉強不足だなぁ。そういうの年寄りの男性なんかは聞いてくるよ?パッと答えられるようにしとかなきゃ」
言われて床柱を再度見つめる。
(赤っぽいから花林か紫檀だと思うんだけど)
口に手を当てて考えていると、
「基本中の基本なんだけど。この展示場の仕様、わかってる?」
「あ、えっと」
「まさか、勉強してこなかったの?」
ぐうの音も出ない。
「……すみません」
紫雨がやれやれと言うようにため息をついた。
「しょうがないな。この展示場の仕様表あげるから。こっち」
言いながら顎でしゃくる。
由樹は少し項垂れて彼の後についていった。
階段下の、階段に沿った形の狭い倉庫に彼は入っていった。
掃除機が入っていた倉庫とは逆側だ。
「ほら、こっちだよ。客来るかもしれないから、早くして」
由樹は恐縮しながら少し屈んでその中に入った。
「この奥にあるんだけど」
紫雨は階段に沿ってだんだん低くなっている倉庫の奥を指さした。
「新谷君の方が小柄だから入れるでしょ。探してみてよ。分厚い青いファイルだから」
言いながら客の気配を伺っているのかドアの方を見ている。
由樹はその狭い倉庫を、しゃがみながら奥に進んでいった。
と、後ろでドアが閉まる音がした。途端に倉庫内が暗くなる。
慌てて振り返ると、裸電球のオレンジ色の光に、紫雨のサラサラの髪の毛が影を作っていた。
「ねえ、新谷君さぁ。せっかくホモサピエンスに生まれてきたなら学習しようよ」
暗い倉庫でしゃがんだ由樹に、その影が迫ってくる。
「俺と2人きりになった時点でわかるでしょ、普通」
髪の毛の間から光が漏れて、紫雨の端正な顔が暗闇に浮かび上がった。
「それとも誘ってる?」
後退しようにも、もう先がない。
紫雨のつけているコロンの香りがした。
「…………」
「あれ?」
逆光で照らされた紫雨の顔が右に傾く。
「逃げないの?」
由樹は彼には見えているだろう瞳で、紫雨の目があるだろう顔の中心らへんを見上げた。
「襲わないんですか?」
逆に質問をすると、紫雨はふっと笑って立ち上がった。
「何それ」
「襲われる気がしなかったので」
由樹はなおもその影を見つめた。
暗闇だし、逃げ出せない倉庫の隅だし、身動きの取れない狭い場所だったが、それでも以前感じたゾクゾクするような気配は感じなかった。
「……やっぱり生意気」
言いながら紫雨が後ろ足でドアを蹴り開ける。
「何かできるわけないでしょ。秋山さんがいんのに」
やっぱり……。
由樹は秋山の小さな身体を思い出した。
(あの人、何者………?)
ホールに出てきた由樹の手からファイルを取ると、紫雨はペラペラと捲って見せた。
「この展示場のグレードから、床材、クロス材、設備関係の仕様まで全部載ってるから、ざっと目を通して。展示所のこと質問されたら、全部答えられるようにしといてね」
「……」
たまにそれらしいことを言うから混乱する。
(この人、イメージ通りの悪い人なのか、実はいい人なのか、よくわからないな……)
「返事っ!」
「あ、はい!」
言うと紫雨はふっと笑って、和室に戻っていった。
「…………?」
和室に何か用でもあったのだろうか。
なんとなくついていくと、その掃き出し窓からハウジングプラザを見回している。
「何を、してるんですか?」
恐る恐る話しかけてみると、紫雨はキョトンとした目で振り返った。
「何って……。客が来るのを待ってるんだけど?」
「え、だって、モニターでチェックできるじゃないですか。チャイムも鳴るし」
言うと紫雨は今度はポカンと口を開けた。
「は?それマジで言ってんの?」
「え?」
言うなり紫雨は由樹のネクタイを掴み、和室を抜けてぐいぐいとホールに進んでいった。
「あ、ちょっと!!苦し!締まってる!!締まってますから!!」
由樹はやっとのことで呼吸をしながら、彼に引きずられていった。
「何足に見える?」
玄関まで由樹を引っ張っていった紫雨は、上がり框に並んだスリッパを指さして言った。
「よ、4足に見え、ます」
由樹はやっとネクタイを緩めて言葉を発した。
「客が5人だったらどうする?」
「?1足付け足します」
「はあ?そんなの間抜けだろ!急な来客に慌てる主婦かっ!!」
由樹は想像した。
確かに、5人の客が玄関に並んでいる横で、シューズボックスを開けてもう1つ追加するのは間抜けと言えば間抜けかもしれない。
「客が入ってきてからじゃ遅いんだよ。モニターに映ってからじゃ遅いの!」
そんなこともわかんないのか、と言うように紫雨は由樹を睨んだあと、素早く外に視線を走らせた。
「ほら、みろ」
由樹が振り返ると、一組の家族がセゾンの展示場を見上げて何やら話している。
若い夫婦と、中年の夫婦、そしてお祖母さんと、小学生の男の子。
「6人ね」
由樹は慌てて2足分、スリッパを付け足した。
「まあ、君のことは秋山さんから任せられてるから」
紫雨は由樹を見下ろして言った。
「俺の接客、よく見とけよ?」