◆◆◆◆◆
「先ほども言いましたが」
生徒が全員出ていったアトリエで、谷原は久次を振り返った。
「ヌードモデルとしての年齢制限は厳密にはありません。ポルノではなく芸術ですから」
久次は谷原を睨んだ。
「公式にヌードモデルを募集するときもそこは常識の範囲内で18歳以上とする場合が多いは確かですが、漣君はもう誕生日を迎えていますので、そう言った面でも彼を起用したことに、こちらとしては負い目は感じていません」
(……こいつ、ぬけぬけと……!)
「ただ1点、あなたに謝る必要があるとすれば、先日、瑞野を起用しないと嘘をついたことでしょうか。美術を齧ってもいないあなたには、おおよそ理解できない世界だと思ったので、あえて隠しました。そこは申し訳ありませ……」
「あんなあどけなさの残る少年を」
久次は谷原の言葉を遮り、睨みつけながら口を開いた。
「裸にして、大人たちの前に晒して、何が芸術だ。何が負い目を感じていない、だ……!!」
「あなたは……」
谷原も久次を呆れたように睨みながら言った。
「美術というものを知らなすぎる」
「…………」
「あなたの高校の美術部の生徒たちに聞いてみたらいかがですか?あなたの言い分と、僕の主張と、どちらの方が正しいか」
「…………」
「美術の専門学校なんかではね、生徒同士ヌードになって写生大会を開くようなところもあるんですよ?」
「そもそも……瑞野は、美術とは無関係だ……!」
「ヌードモデルなんて」
谷原はおかしそうに笑った。
「美術に無頓着な人間ばかりですよ?」
「…………」
「彼らにとっては、モデルとして自分をありのままを晒すのは、一種の自己表現。それはそれで違う欲求と目的があるのです」
「しかし……」
久次はこみ上げる怒りで胸を膨らませながら言った。
「大半の人がその芸術とやらを追い求めてやっていたとして、瑞野が自らの意思で欲求と目的のためにやっていたとして、そうでもない人間が紛れている可能性については考えないんですか?」
「どういう意味ですか?」
谷原が目を細める。
「瑞野に変な気を起こす生徒がいる可能性については?」
小鼻がピクピクと痙攣する。
「いない、とは言い切れませんが」
谷原は首を捻った。
「もしそこで何かあれば、それこそ刑事事件だ。そうなったら僕も黙っていませんよ?」
「…………」
久次は大きく息を吸い込んだ。
瑞野の顔を思い浮かべる。
(……瑞野。許せよ)
そして谷原をもう一度見つめる。
(……この男、ちゃんと話さないと、話が通じない)
「谷原先生。瑞野が、そのデッサン会にきた男たちと、身体の関係を持っているのは、ご存知ですか?」
◆◆◆◆◆
漣は制服に着替えた。
途中参加になっても、久次の恩師である沖藤先生の合同練習に参加するつもりだった。
もう一度壁にかかったワインボトルの青空を見つめる。
……俺はもう、逃げない。
今夜、きちんと母親にすべてを話す。
驚かれるだろう。
泣かれるかもしれない。
でも漣はそもそも大学になど、行きたくない。
高校を出たらすぐにでも働ける。
楓が大学に行きたがったら、母親が貯めた金を使えばいいし、その頃には自分だって援助できる。
もう、あのアトリエを無理に貸す必要はない。
そのことを、
何時間かかっても、何晩かかっても、母親に話して聞かせるのだ。
父親の趣味趣向に振り回された自分たちは、もう誰も犠牲にならなくていい。
親子3人でまた、始めればいい。
こんなにシンプルなことだったのに。
どうして今まで自分一人で抱え込んでいたのだろう。
勇気を絞り出すくらいなら、自分が犠牲になった方がラクだと思った。
でも……。
久次の顔を思い出す。
自分のためにあんなに必死になってくれる人間がいるなら。
たとえそれが、教師としてだとしても。
(……俺には俺を、守る義務がある)
扉を開ける。
……誰かが、立っていた。
見上げるのと同時に顔を鷲掴みにされ、
漣は絨毯に頭を沈められた。
◆◆◆◆◆
久次は雑木林を今度はゆっくりと下っていた。
これで、よかったのだろうか。
『それは……知らなかったな』
谷原の心痛そうな面持ちを思い出す。
『すみませんでした。完全に私の監督不行き届きでした。先生が疑ったり反対するのも当然ですね』
その話をした途端、谷原は掌を返すように、あっけないほどに簡単に頭を下げた。
『僕の方から、漣君にはきちんと話をします。相手も突き止め破門にし、しかるべき措置を取ります』
スラスラと述べる谷原に、久次は眉間に皺を寄せた。
『……瑞野は飄々としているように見えて、繊細なところもあります。ことを荒げたりするのは嫌がると思いますので、そこはどうか瑞野の意思を汲み取ってあげてください』
頭を下げた久次に、谷原は柔和な笑顔に戻って言った。
『大丈夫ですよ。そこは。こう見えても……彼との付き合いは、先生より長いんでね』
久次はその言葉を反芻しながら森を抜けた。
駅の駐車場に停めてあった車に乗り込む。
森を直線距離で走った方が早いかと思ったが、山道を飛ばした方が早かったかもしれない。しかしあの時は無我夢中だった。
おかげで……
「このありさまだ」
久次は泥にまみれた革靴と、蜘蛛の巣がところどころにぶら下がったワイシャツを見下ろして笑った。
明日、瑞野には谷原とどういう話をしたか聞いてみよう。
大丈夫だ。繊細ではあるが、案外強くて前向きな奴だ。
多少怒られたとしてもへこたれる奴ではない。
「そうだ」
久次は呟いた。
こうしてはいられない。
今すぐ赤坂大学の美展に戻り、あの展示されている瑞野の絵をしまってもらわねば。
久次は慌ててドアを開けると、運転席に飛び乗った。
◆◆◆◆◆
自分の顔を抑え込み、腹に跨りながら谷原は叫んだ。
「……ッ!俺は……何も……!」
「ぐエッッ!!」
指を突っ込まれ、漣はえずいた。
拳が頬に飛んでくる。
「……え!………だろうが!!!」
自分を見下ろし、さらに2発目を入れてきた谷原が、何を言っているのか聞こえない。
痛い。
殴られるのも。
悩むのも。
恋をするのも。
全部。
「兄ちゃん……?」
谷原の声は聞こえないのに、その声ははっきり聞こえた。
「兄ちゃん、大丈夫?」
ドアの向こうから弟の声がする。
何も知らない楓の声が……。
「だ、大丈夫だよ」
慌てて谷原を突き飛ばす。
「おっかない夢見て、ベッドから落ちた」
言うと、楓はため息をついた。
「びっくりした―。誰かと喧嘩でもしてるのかと思った」
「はは。悪い」
楓の足音が、母の寝室を挟んで向こう側の彼の自室に入るのが聞こえた。
漣はドアを見つめた。
そうだ。
ここで自分が負けていたのでは……。
谷原を睨む。
弟の楓までいつかこの毒牙にかかってしまうかもしれないのだ。
「……俺、もうこういうこと辞めます」
「はあ?なんだと?!」
「今夜、母親に全てを話します。それで終わりにする」
谷原の眼が大きく開かれる。
「これ以上、俺になんかするなら、今すぐ叫んで楓を呼びます」
漣は立ち上がった。
「もう俺は、客なんかとらない」
言うと谷原はクククと笑った。
「奇遇だな、漣君」
いつもの薄気味悪い丁寧な口調に戻っていた。
「僕も今日、それを提案しに来たんだよ」
「よく言う。久次先生に責められたからだろ」
漣が口の端で笑うと、谷原はまたクククと笑い、転がっていた自分の鞄を手繰り寄せた。
「今日はこれを君に渡しに来ようと思ったんだ」
「………?」
漣は谷原が取り出した用紙を訝し気に覗き込んだ。
「………!」
そしてその紙に書かれている字を見て、目を見開いた。
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