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拝借したイーゼルを戻し終わると、久次は美術室で一人、ため息をついた。
瑞野は無事、谷原と話ができただろうか。
生徒とは努めて一線を引いているため、携帯電話の番号など知らないが、初めてそのことをもどかしく思った。
少しでも声が聴ければ。
話ができれば。
自分も安心できるのに。
行ってみるか……?
1つの選択肢が頭をかすめる。
時刻は6時。
瑞野の家には7時前にはつく。
今日のことがあったから心配して家を訪ねた。
別に不自然ではないはずだ。
しかし……。
彼の母親がいたら。
弟がいたら。
なんて説明すればいいのだろう。
ふっと息を吐きながら首を左右に振る。
明日になれば合唱部で会えるのだ。
別に焦ることなんてない。
軽く首を回し関節を鳴らすと、窓の戸締りを確認した。
ふと目につき、美術室に置きっぱなしだった、自分のスケッチブックを手繰り寄せる。
そこには生徒たちと一緒に書いたデッサンが並んでいた。
「……林檎」
久次は呟きながらページを捲った。
「……電球……ゼムクリップ……」
また捲る。
「トイレットペーパー、辞書……」
その時、スラックスに入れていた携帯電話が鳴った。
(瑞野……?)
その発想に思わず笑う。
自分が教えていないのだから、彼が久次の番号を知っているわけがない。
「もしもし。お疲れさまでした」
出ると、電話口の相手は笑った。
『なかなか有意義な合同練習だったよ』
「それは良かった」
言葉通り満足げな沖藤の言葉に、思わず肩の力が抜ける。
「今夜帰られるんですか?」
『ああ。今新幹線に乗り込むところだ』
「道中お気をつけて」
『――――』
沖藤は黙り込んだ。
「先生?」
携帯電話を持ち替えつつ聞くと、
『一度、帰って来い』
「………」
『断ってもいいから。一度こっちでゆっくり話をしよう』
どうやら自分の諦めの悪さは、師匠譲りらしい。
「……わかりました」
『きっとだぞ。俺が死ぬ前にな』
沖藤は縁起でもない冗談を言って、電話を切った。
久次は携帯電話を握りしめたまま俯いた。
合唱団の講師。
やりたくないわけがない。
しかし、今なんとか高校の合唱部の顧問として成り立っている自分が、合唱団の講師として成り立たないという現実を、突きつけられるのが怖い。
そして自分が起こしたあの事件について、知っている人間が多い地元に帰るのは、
もっと怖い。
久次は、雑木林を走ったときの汗ですっかり整髪料が取れてしまった髪の毛をガシガシと掻いた。
「……髪の毛に蜘蛛の巣ついてるよ」
その声に驚いて振り返る。
そこには学生服を着た、瑞野が立っていた。
◆◆◆◆◆
他に思いつかずに駆け込んだ学校の、第二音楽室は暗かった。
それもそうだ。
今日の合同練習は現地集合で現地解散だった。
顧問の久次も今日は美展の手伝いで、1日そちらにかかりきりだったはずだ。
そんな中、自分のために抜けてきてくれたのかと思うと、薄暗い校舎のうすら寂しさとは裏腹に、胸がポカポカと温かくなった。
(……会いたいな)
漣はトボトボと当てもなく歩き、暗い廊下のタイルを目で追いながら、目を細めた。
久次の顔を見たい。
叱咤されてもいい。
呆れて笑われてもいいから。
ふと窓の外を見た。
コの字型の校舎の二階。明かりが点いている教室がある。
あれは……。
「美術室……」
言った途端、足に力が戻った。
先生。
いつの間にか叫びながら廊下を走っていた。
◇◇◇◇◇
声をかけると、久次は先ほどの気迫が嘘のように、驚いた顔で振り返った。
「蜘蛛の巣?どこだよ?」
言いながら髪の毛を弄っている。
冗談のつもりだったが、久次は大まじめで頭を弄っては手を見つめている。
「ははは」
自分がなぜこんな時間に学校にいるか聞かず、あの後谷原とどんな話をしたかも聞かない久次に安心ながら、美術室に入った。
「………騙したな?」
どこかほっとしたような柔らかい顔でこちらを見下ろしてくる久次の視線に、胸が熱くなる。
「……あの後、大丈夫だったか?」
久次が微笑む。
「あー。まあ」
「怒られただろ」
「少しね」
漣も笑い返した。
「反省せよ」
久次は笑いながら漣の頭に手を置いた。
「されば赦されん」
「……なにそれ」
言うと、久次はふっと笑った。
「聖書だよ。“求めよ。さらば与えられん”」
「どういう意味?」
片眉を上げた漣を久次が見下ろす。
「与えられるのを待つのではなく、積極的に自分から求め努力することで、欲しいものが手に入る、という意味だ」
「…………」
求めよ。さらば与えられん。
求めよ。さらば与えられん。
求めよ。さらば………
「先生。………クジ先生」
漣は呟くように言った。
「俺も、求めていいの……?」