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「これが12色相環と言います」
谷原は12色が時計のように円に配置されているカードを久次に渡した。
「黄・赤・青の三原色をそれぞれに混ぜた橙・紫・緑の二次色の6色から、さらに隣の色同志を混ぜてできた12色です」
「ほう……」
久次はその表を覗き込んだ。
「落ち着いた印象に仕上げたいなら、同系色を使いますが、より深みのある印象にしたいのであれば、類似色を使います。
例えばレモンイエローを主体として、カドミウムイエローディープや、メイグリーンを使う、とかね」
「……なるほど」
「そしてより鮮やかな印象にしたいなら、補色を使います」
「補色?」
「ええ。このように……」
谷原が票の上に、ユニ鉛筆で薄く対角線を引く。
「12相環の相対の位置にある色を使うことです。例えば黄色と紫、青と橙。赤と緑などは、補色の関係になります。
補色同士を並べると、互いの色を引き立て合うので、とても目立つ色合いになります」
覗き込んだ久次を、谷原が微笑みながら見下ろす。
「人間だってそうでしょう?自分と正反対の人間の方がかえって互いを引き立て合ってうまくいくって」
「…………」
脳裏に浮かんだのは………
あの生意気な高校生だった。
露骨で、不躾で、子供で、わかりやすい。
一方で素直で、単純で、強くて、清い。
本当に、自分とは正反対だ。
確かに彼とは相性がいいと、自分でも思う。
古典を受け持つだけだった時は、授業中の野次や改善されない態度にイライラしたりもしたが、ふたを開けてみれば、ガキっぽいところはあるが、素直でいい奴だ。
「……あ。誰かの顔を思い浮かべてますね?」
谷原がふっとこちらを見て笑った。
さすが、物に表情を見出す芸術家は、人間の表情の変化にも敏感らしい。
「色遣いは久次先生の自由です。今日と次回で教室はラストですから。前回までにデッサンした下書きに色を乗せて、先生の集大成を見せてください」
久次は頷くと、水彩紙の上に描かれたワインボトルを見つめた。
「せーんせ」
教室が終わり筆を洗っていると、今日は黒シャツに白いジャージ姿の瑞野が姿を現した。
「見せてよ。絵」
瑞野はいいとも悪いとも言っていないのに勝手に水彩紙を覗き込んできた。
「うわ。すげ。なにこれ」
「……ワインボトルだよ」
「わかるよ、そりゃ。なんでこんなに黄色いの?」
「……まだ陰の段階なんだよ」
久次は目を細めて瑞野を睨んだ。
「色を乗せるのは次回だ。今日は陰で終了」
「へえ」
瑞野は黒板横に貼ってあるカレンダーを振り返った。
「もしかして、次回で教室終わり?」
「ああ。そうだ」
「そ………っか」
「どうかしたか?」
瑞野は、一人で納得したように小刻みに頷くと、不審な顔をした久次にごまかすように、ニヒッと笑った。
「先生、教室に車で来ることにしたんだね」
「ん?ああ」
窓から見える駐車場を振り返って、久次は頷いた。
「本当は年間の走行距離、5000キロ以内に収めたかったんだ」
「え?」
「自動車保険が安くなるからさ。でも10月から2ヶ月間、障害学習の研修が入って。隣県まで通わなければいけなくなった。だからもういいかと……」
「ふっ」
瑞野は吹き出した。
「先生って意外とケチなんだね」
「なんだ、意外とって」
「だってこの前、調子笛を何の迷いもなくくれたし、部活に毎回ジュース買ってくるし。独身貴族ゆえの太っ腹なのかと思った」
「ジュースは部費から出してるんだ。俺が毎回自腹を切ってるわけないだろ」
久次は笑った。
「まあ、調子笛は買うと高い上に、別に複数持ってても良かったけどな」
「…………」
「才あるカウンターテナーに、投資ってことで」
瑞野が大きな目でこちらを見上げる。
「練習してるか?」
「……してるよ」
「知ってる」
久次はその艶の良い頬をぺんぺんと叩いた。
「家で練習しなけりゃ、短期間でここまで上手くならない」
「……んとに、あんたは……!」
たちまち瑞野の顔が赤く染まっていく。
この間、リクエストだったとは言え、抱きしめてしまったからだろうか。
たまらなく温かい感情が胸の奥から湧いてくる。
その華奢な体を引き寄せ、また自分の胸の中に閉じ込めてしまいたくなる。
(いやいや。何を考えてるんだ、俺は)
久次は自嘲的に笑うと、水彩紙を展示棚に置いて、トートバックを持ち上げた。
「じゃあ、瑞野。明日学校でな?」
「へいへい」
瑞野が細い腕を上げヒラヒラと左右に振るのを見ながら、久次はアトリエを後にした。
砂利の駐車場を進むと、正面から上品なスーツを着こなした紳士が歩いてきた。
見たことのない顔だ。
教室は終わったはずで、アトリエを出たのは自分が最後だと思ったが……。
「こんばんは」
年は40代後半と言ったところだろうか。
男性はにこやかに微笑み、軽く会釈してきた。
「こんばんは」
挨拶を返しながらこちらも会釈をする。
品のいい整髪料の匂い。
「…………?」
こんな男性があの家に何の用だろう。
一瞬不思議に思ったが、
「親戚かなにかかな……」
久次は踵を返し、紳士のものと思われる高級ステーションワゴンから比べると、やけにちゃっちく見える自分のハイブリッドカーのカギを開けた。