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「漣君……だよね?」
男はアトリエに入ってくるなり、持っていた鞄から名刺を取り出した。
「……は?誰すか?」
警戒した漣に、男は微笑んだ。
「谷原さんの紹介で来たんだけど」
(なんだ……客か?)
漣は目を見開いた。
いつもなら新規の客は谷原から事前に連絡がくるはずなのに、今日はなにも来ていない。
「これ、僕の会社。これ、僕の名前ね?」
「……どうも」
おどおどしながら、人生初となる名刺をもらう。
【 株式会社 AGE 代表取締役 若林修 】
「……しゃ、ちょうさん……?」
漣は目をパチクリしながらその男を見つめた。
今までの自分の客たちは、その社会的地位を守るための自衛本能なのか、職種は教えても会社名は教えなかった。苗字は教えても、下の名は隠し続けた。
そもそも教えられたところで漣に覚える気がなく、脳裏でも電話帳でも豚、ゴリラ、馬で呼んでいたのだが。
「こんなこと俺に教えて、平気?ええっとワカバヤシさん?」
漣が思わず尋ねると、彼はふっと笑った。
「僕は君が瑞野漣君という名前で、ここが君の住所で、さらに電話番号だって知ってる。それなのにこっちが名乗らないなんてフェアじゃないだろ?」
「…………」
(変な人。やることは一緒だろ……)
漣はカーネルサンダースのように恰幅のいい若林を見つめた。
「悪いけど今日、10時から観たい番組があるから」
漣は言いながらTシャツの裾に手をかけた。
「早めに……」
「そうなんだ。じゃあ、風呂にも入りたいだろうから」
若林は腕時計を見つめた。
「9時前まで、君の時間を僕が貰ってもいいかな?」
漣はアトリエの時計を見上げた。
「…………」
もう8時半を過ぎている。
「いいの?そんなんじゃ……」
ろくなことできなくない?
言いかけた漣の手を、若林は握った。
「服は脱がなくていいよ」
「………?」
わけがわからず漣は男を見つめた。
「今日はお話をしよう。そうだな。じゃあ、君のこと良く知りたいから、まずは家族について」
山を下り、森を抜けたところで、Bluetoothにつないだ携帯電話が鳴りだした。
(誰だ?こんな時間に)
「…………」
そのまま応対しても良かったのだが、路肩に車を停車させ、ナビではなく直接、通話ボタンを押した。
「先生。お久しぶりです」
言うと、電話口の相手は笑った。
『なんだ、こんな時間にさっさと電話に出るなんて。その調子じゃ彼女なんてできてないな?』
思わず顔が綻ぶ。
「そこはご想像にお任せします」
『ははは』
「……お元気ですか?すっかりご無沙汰してしまって」
『ああ。まあぼちぼちやってるよ』
「Nコンももうすぐだしそちらもお忙しいでしょう」
『まあな』
そう言うと相手は、自分からかけてきたくせに、黙ってしまった。
「……先生?」
いつもの彼らしくない。
久次は首を傾げた。
『ときに……久次……』
彼は意を決したように言った。
『お前、こっちに戻ってくる気はないか?』
脳裏に青臭い田んぼの匂いが蘇る。
青々しく聳え立つ山脈を思い出す。
「それは、なんでまた……?」
そう言うのが精いっぱいだった。
『実は……』
男はこちらの反応に気を使いながら、ゆっくりと話し始めた。
その話は、先ほど瑞野の家に停まっていた高そうなステーションワゴンが、久次の停めた車を追い抜かしていってもまだ尚続いた。