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「いらっしゃいませ」
紫雨の上品で爽やかな笑顔に、若い夫婦の顔が高揚する。
「あの、展示場見せていただいてもいいですか?」
「ええ、もちろん」
第一印象からすると、篠崎みたいな女性受けする顔ではなく、中性的な幼い顔は逆に有利かもしれない。
若い旦那も、中年の夫も、紫雨に対して対抗心や猜疑心を感じていない様子だ。
「いやあ、どこのメーカーも豪華絢爛ですね」
中年の夫が展示場を眺めながら言う。
「当然ですよ、展示場ですから。オプションでキラッキラに盛ってますから」
紫雨が飄々と笑う。
篠崎と比べると異常に軽い。
「坪100万円くらいかけて建てるのが普通ですからね」
「坪100万だって」
若い妻が目を丸くする。
「ここってちなみに何坪ですか?」
「79坪です」
今度は中年夫婦が顔を見合わせて笑う。
「お客様にだけ内緒で、この展示場の値段、お教えしましょうか?」
紫雨が少しだけ声を潜める。
バラバラに散りそうだった6人が自然と紫雨の周りに集まる。
「単純計算で7900万くらいか?」
中年の夫のほうが言うと、紫雨はゆっくり首を横に振った。
「6162万円です」
やけに細かい数字と、思ったよりもずっと安い金額にみんな目を見合わせた。
「実はこの展示場、全てオプションではなく標準仕様で出来ているんです」
「これが標準仕様?」
皆一様に口を半開きにあけて、改めて展示場を見上げる。
「ちなみにお客様は何坪くらいの家を想定してますか?」
紫雨の質問に家主になるだろう中年の夫が答える。
「まあ、2世帯だから、70坪くらいかな」
「ですと、当展示場で建てるとなると、5000万円くらいです」
主に支払いを受け持つであろう4名2組の夫婦が顔を見合わせる。
「例えばですけど、頭金1000万円、4000万円の借入で、35年ローン、金利は変動で0.5%だとすると、月々の支払いは6万4千円。ボーナス年2回15万円ですね」
スラスラと出てくる数字に、4人はますます顔を見合わせた。
「なんでうちの頭金までわかるんですか?」
若い夫人が言うと、紫雨はプハッと吹き出した。
「もちろん当てずっぽうですよ。えっ。当たりましたか?」
その爽やかな笑顔に、家族はつられて顔を綻ばせた。
◇◇◇◇◇
「残念だなー。あれ。時間さえあれば90分以上のアプローチ出来たのに」
紫雨は客たちが去っていった駐車場を見ながら屈伸をした。
「息子さんのピアノの発表会じゃ、仕方ないですね」
言いながら由樹は客たちが脱ぎ散らかしていったスリッパをシューズクロークに片付けた。
「でも銀行の審査用紙も書いてもらいましたし、次に繋がってよかったですね」
言いながら立ち上がると、紫雨は横目で由樹を睨んだ。
「繋がったんじゃない。繋げたの!当たり前でしょ。金の話をしたら、金のアポを取んだよ!」
「金の話?金のアポ?」
紫雨は頭を掻いた。
「……逆に聞きたいわ。篠崎さんってどうやって家売ってんのぉ?!」
叫ぶように言うと、白くて長い人差し指を立てた。
「金の話をしたなら、銀行の審査用紙をもらう。
家の構造の話をしたなら、上棟式直後の建築現場を見せる。
家の仕上がりの話をしたなら、内覧会の予約を取る。
これ、基本中の基本だから!!」
「……なるほど」
由樹は思わず唸った。
やはり紫雨の言葉には謎の説得力がある。
「……そういえば、なんで頭金の金額わかったんですか?」
聞くと紫雨は鼻で笑った。
「当てずっぽうだって言ったでしょ。住宅ローンのシミュレーションは20通り以上暗記してる。
頭金2000万だって言われても、500万だって言われても、空で計算できるよ」
「え、ホントですか?!」
「ハウスメーカーの営業がさ、住宅ローンの計算にこれ見よがしに金融電卓を出すとか、ナンセンスでしょー」
「はあ…」
「ローンの話が強い営業こそ、家は売れる。これ、常識だから」
「ローンの話……」
紫雨はなおも睨むようにこちらを見た。
「当たり前でしょ。人生で一番高い買い物なんだから!およそ9割の客がローン組むんだよ?」
(……確かに…!!)
「はい!問題!!」
紫雨が叫んだ。
「変動金利のメリットは?」
「……低い?」
「デメリットは?」
「変動して高くなったときの支払い額が上がる……?」
「ネット銀行のメリットとデメリットは」
「……?」
「元利均等と元金均等の違いは?」
「??」
「負担割合とは?」
「???」
額にどんどん汗をかいていく由樹を紫雨が睨む。
「新谷君。はっきり言ってさ、君、展示場に出すレベルじゃない。当たった客がもったいない」
「す、すみません!」
「今日は事務所で金の勉強。俺が出す問題に全部答えられるまで帰さないから」
「…………」
由樹は頷いたまま項垂れた。
紫雨が言っていることは―――――正論だった。