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音楽室で合唱部のみんなに休憩の茶を配っているところで、いつもは窓の外ばかり見ている瑞野が話しかけてきた。
「……出ないんだけど」
「は?」
「高い音」
「?」
久次は茶を瑞野にも渡すと、立ち上がって彼と目線を合わせた。
「何が出ないって?」
「だから!高い音だよ!」
機嫌悪く声を張り上げた瑞野を皆が振り返る。
「何言ってんだ。出るよ、お前は」
「……だから出ないっつってんだろ!ここで発声練習や声域を測った時には出たのに、他では出ないの!」
久次は、なぜか興奮し紙コップの中のお茶をこぼしながら噛みついてくる瑞野の手を見つめた。
(……他って、こいつ。家でも練習してるのか?)
視線を上げ彼の顔を見る。
色白な頬が興奮で赤く染まっている。
(そうか。高音が出なくて、悔しかったんだな)
嫌々やっているものとばかり思っていた彼が、家で楽譜を開き練習しているさまを思い浮かべると笑いがこみ上げてくる。
「……何笑ってんだよ」
(……バレた)
「もう俺、一生高い音出ない。降板させてよ」
口を尖らせ拗ねたような顔をする瑞野が可愛くて、久次はその頭に手を置いた。
「……他で、出なかった理由はなんだかわかるか?瑞野」
「理由?」
瑞野がこちらを睨み上げてくる。
「何のために発声練習してると思ってるんだ、馬鹿」
「……あ」
「発声してないから出ないに決まってんだろ?」
「……だって、声域測った時だって練習なんて……」
「低い音からスタートしたろ。少しずつ上げていくこと自体が発声練習になってんだよ」
「はあああ。なーんだ」
安堵のため息で、手の中にある頭が沈んでいく。
(……こいつなりにちゃんと真面目に考えて、責任感とかあったんだな)
そう思うと思わず抱きしめたいほどの感情が沸いてくる。
現金なものだ。
古典の授業中にはクソガキとしか思わなかったのに、合唱部に入り、しかも特殊声域であるカウンターテナーだとわかった途端、感情が掌返しだ。
振り回されるこいつもかわいそうに……。
そのフワフワの髪の毛を撫でまわす。
嫌がるかと思いきや、瑞野は黙ってされるがままになっている。
「……でも昨日、一瞬だけ出たんだよね」
「何が?」
「高音」
「へえ?」
「寝っ転がってたらさ」
瑞野が首を傾げる。
(……なるほど)
「おいで。瑞野」
久次は他のメンバーに練習箇所を指示してから、瑞野を連れて音楽室を出た。
「……え?どこ行くのクジ先生」
久次は振り返ると、不安そうに見上げる瑞野に微笑んだ。
「いいとこ」
大きい目が見開かれるのを見下ろしながら久次は堪えきれずに笑った。
◇◇◇◇◇
保健室のベッドの上に座らせると、いよいよ瑞野は焦りだしたのか、久次に歯を剥いた。
「あんた……やっぱり変態教師だったのか!!」
「なんだ、やっぱりって」
久次は笑いながら漣を押し倒した。
「ちょっと……!ちょっとおお!」
「うぶな反応するなよ。悪いことしてる気分になるだろ」
言いながら白シャツのボタンに手をかけ2つほど外す。
「大声出すぞ!」
「いいぞ、裏声でな?」
言いながら首に手を指を添わせる。
「クジ!!エロクジ!いい加減に……!」
「シーーーーーーーーーーーーーッ」
久次は瑞野の顔の横に手を突きながら、もう一つの手で人差し指を唇に当てた。
「…………」
途端に大人しくなった瑞野が、こちらを見上げてくる。
「……自分の喉、触ってみろ」
「え?」
「喉だよ。喉仏」
瑞野が眉間に皺を寄せながら、恐る恐る自分の手を喉に当てている。
「……あ」
何かに気づいた様子の瑞野に頷いて見せる。
「わかるか?寝転がっているときは喉仏が下がってるんだよ」
「喉仏が下がるとどうなんの?」
久次は自分の喉仏が見えるように、ネクタイを緩め、シャツのボタンを同じように2つ外した。
「実は高音を出すときには、喉仏を下にさげた方が出しやすい」
「……へえ。すげぇ」
「そういう身体のメカニズムを知っておけば、今後も辛くないぞ」
「…………」
瑞野が久次の喉を見つめる。
「……先生は、声楽やってたんだよね」
「ん?ああ」
「テノール?バリトン?」
「……テノールだよ」
突然浴びせられる質問に、少しどもってしまう。
「オペラ歌手だったの?」
「はは、いや」
視線は互いの喉仏から、瞳に移る。
「でも声楽は勉強してた。綺麗な声で歌いたくて」
脳裏に薄暗くて狭いピアノ室が蘇ってくる。
「……勉強してたのに、辞めたの?」
「ああ、まあ。そうだな」
湿った、古い木の匂いがするピアノ室。
「なんで?」
「才能がなかったからだよ。だから指導する側の方が向いていると思った」
「………ふーん」
「お前みたいな特殊声域は希少で貴重だが、テノールなんて履いて捨てるほどいるから、需要がまずないんだよ。一つも二つも才能が抜き出てないと、声すら掛からない。そういうシビアな世界だから」
「そうなんだ」
瑞野は起き上がった。
「……俺、てっきり」
「ん?」
ーーーーーーーーーーーーー
音を立てて、閉じ込めた記憶が溢れ出す。
細い腹を滑る手。
触れ合う頬の熱さ。
漏れる息遣いに、
幼い声が混じる。
絡み合う唾液が甘い。
しがみ付く手が痛い。
ーーーーーーーーーーーーー
「……クジ先生?」
はっと目を開けた。
目の前には瑞野がキョトンとしながらこちらを見上げていた。
「大丈夫?すげー汗だけど……」
そのときスラックスに入れていた携帯電話が鳴りだした。
慌てて取ると、中嶋からだった。
「すみません、なんか石井が具合悪いらしくて。熱中症かもしれないんで、早く戻ってきてくれますか?」
「あ、ああ。すぐ行く」
久次は保健室の冷蔵庫を開けて、常備してあるOS1を一つ取り出すと、
「音楽室に戻るぞ」と言葉少なに瑞野に言い、ドアを開け放った。
廊下を走った。
とうの昔に記憶の奥底に封じ込めた彼が、こんなに鮮やかに蘇ったのは、久しぶりだった。