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◆◆◆◆◆


OS1を飲んでだいぶ落ち着いた様子の石井は、保護者に連絡をし、迎えに来てもらった。

「いいか、冷房はついていても熱中症にはなるからな。みんなこまめに水分採って、塩飴やタブレットも努めて摂ることー。しかし今日は特別暑いから気温上がり切る前に解散しよう!」

言いながら彼らにタブレットを配る。

ミネラルと塩分が入ったしょっぱいタブレットだ。

「うえええ、しょっぱい……!」

杉本が目に涙を浮かべながら、久次から受け取ったお茶を飲み干す。


久次は散っていく生徒に手を振り肩を叩きながら、窓の外を見つめた。


迂闊だった。

音楽室も美術室もガンガンに冷やしていたから油断していた。

彼らは自転車や駅まで歩いたりしながら、学校に来るのだ。

空調を効かせた車で通勤してくるのとは違うのだ。

美術部の生徒達にもその旨を話し、今日は残るも帰るも自由参加にしよう。


「……個人練習は?クジ先生」

音楽室に残った瑞野がこちらを見上げてくる。

中嶋もグランドピアノを磨きながらこちらを見つめる。

「あー…」

どうしたものか。

この二人にはコンクールまで練習してもしても足りないくらいの技量が求められる。

徹底的に指導するチャンスと言えばチャンスだ。

それに二人位なら、暑い夕方でも自分の車に乗せて送ってやることもできる。

「演りたいなら付き合うけど、強制はしない。帰りたければ帰ってもいいぞ」

判断を委ねると、

「ご指導お願いします」

中嶋が迷いのない言葉を吐きながら、少し長めの黒髪をはらりと揺らして頭を下げる。

「……俺も別に、夜まで暇だし」

対照的に瑞野は目を逸らし、面倒くさそうに言った。

「……夜に何があるんだよ」

久次は目を細めた。

「え?」

瑞野がこちらを睨み返す。

「お前、もう変な暇つぶしはしてないだろうな?」

意味深な言い方に中嶋が視線だけ久次と瑞野を往復させる。


「……してないって!観たい番組があんのぉ!」

口を尖らせた瑞野に笑いつつ、久次は思った。


家でも自主練習を一生懸命しているような奴は、


喉仏のような小さな自分の身体の変化に感動できる奴は、


そして自分の声に、身体に価値を見出した彼は、


もう、大丈夫だ。


おそらく、

多分、

いやきっと、

絶対、


“単なる暇つぶし“で、自分の大事な身体を傷つけたりしない。




「合唱曲と重唱曲とは、まず根本的に違う」

久次の言葉に、もともと音楽の知識がある中嶋は深く頷いた。

「合唱の場合は、ピアノは伴奏だが、重唱の場合は、ピアノも旋律。一つのパートと思って、引き立て役ではなく、伸びやかに奏でていい。中嶋も弾いてて面白いはずだぞ。違うか?」

言うと中嶋は久次を見つめもう一度頷いた。

「はい。楽しいです。おっしゃる通り伴奏ではなく、普通に曲を奏でてるように。

ロベルト・シューマン作曲ということもあって、一節一節にすごく劇的なドラマを感じるんです」

「彼は文学も好んだんだ。彼が作った曲が一つ一つ胸を抉られるドラマを形成するのはそれも影響しているんだと思う。

そしてその生涯の儚さから、悲劇を音で描くのが群を抜いて上手い。負の魂の表現はどの作曲家よりも……」

「あのお」

語りだした久次に、グランドピアノに寄りかかっている瑞野が手を上げる。

「……れんしゅーしないの?」

「するよ。するけども!」

久次はその腕を引っ張りピアノから離した。

「音楽というのは魂で奏でるんだ。その曲の概要や知識は入れておいて損はない」

「ほー、そういうもんですか」

瑞野がまたグランドピアノに寄りかかる。

「お前な」

「触れないでもらっていいですか」

中嶋の凛とした声が、三人しかいない音楽室に響き渡る。

「ピアノは楽器です。空気を震わせ伝わせて音を出す楽器です。楽器に触れると振動に影響が出て音は変わります。触れないでください」

「…………」

瑞野は中嶋を睨みつつ、ピアノから離れ、窓枠に寄りかかった。

「……とにかく」

取り繕うように中嶋に向き直る。

「今回はお前も伸びやかに歌えよ!」

「はい、先生!」

中嶋が口元を引き締める。


「さて、肝心の曲だが、”流浪の民”は、これは歌い手たちにも伝えるが、一章ずつ表情を変えるんじゃない。節単位でころころ変わるところに特徴がある。ピアノから一気にフォルテまで上がる。フォルテシモから一気にピアニシモに収める。

その変化は瞬間的でクレッシェンドやデクレッシェンドは実は多用しない」

中嶋が譜面を見ながら頷く。

「そうだな。多重人格にでもなった気持ちで演ってほしいかな」

久次が微笑むと、

「まんま、クジ先生じゃん」

後ろから野次が飛んできたがシカトする。

「変化が瞬間的である以上、今まで中嶋には、伴奏で合唱を盛り上げてもらって、ある意味頼りきりだったが、それが通用しない。

全員がこの楽譜を読み解き、暗記し、どこで強弱をつけるか頭の中に入れておく必要がある」

中嶋は頷いた。


「旋律的には難しくない。アルペジオが続き、音程が取りやすい。和音も単純でつられにくい。演ること自体はむしろ簡単だといってもいい。

しかし、この曲を、シューマンが四重唱にした意味を考えながら本格的に演奏するとなると、ものすごい技量が求められる」

「はい」

「これは俺たちにとって、無謀な挑戦なんだよ。でも俺は、お前と……」

興味なさそうにこちらを眺めている瑞野を振り返る。

「あいつがいればできると思っている。俺に、シューマンが描いた本当の”流浪の民”を聞かせてくれ!中嶋!」

「……はい!」

中嶋は大きく頷いた。


◇◇◇◇◇


「――――」

漣は、椅子に座った中嶋と彼を見下ろす久次を眺めながらため息をついた。

(あーあ。これはクジ先生が悪い)

あんなに熱烈なラブコールを受けて、その気にならない人間なんていない。

しかも自分が本気で取り組んでいる音楽に対し、その指導者からあんなに期待されたんじゃ、惚れないわけがない。

今まで音楽の授業なんて適当に受けてきた自分でさえ、響くものがある彼の演説は、今まで専門で学んできて、これからもその世界にどっぷり浸かりながら生きていくのであろう中嶋には、陶酔して当たり前の言葉の羅列だろう。

久次に惚れているのであろう中嶋に心底同情する。

だって―――。

久次の切れ長の目を見る。

彼の瞳に、中嶋は映っていない。

中嶋の奏でる音楽と、それによって実現しそうな“自分の求める音楽“しかない。


(……かわいそうな奴)


譜面台の上の楽譜を頭をつきあわせて覗きこみ、冒頭から弾いていく伴奏に耳を澄ませながら、ずるずると身体を滑らせしゃがみこむ。


(ま、俺だって似たようなもんか)


中嶋が言った通り少しばかり声域が特殊だから、重宝されているだけだ。

彼の眼には自分だって映っていない。

自分の声しか。


(声さえ手に入れば、別に俺なんかどうでもいいんだろ……)


心の中でぼやいた言葉が、思いのほかショックで漣は立てた膝の間に頭を落とした。


「おい。何を寝ている」

頭上から声が降ってくる。

「聞いとけよ」

「だって。シモヤケとかホルモンとか、よくわかんねえんだもん」

見上げた顔に、久次がため息を吹きかける。

「お前が音楽記号の勉強からだな」

引っ張り立たせる手が熱い。

そのたくましい腕に縋りつきたくなる。


ダメだ。

この人は………巻き込みたくない。





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