コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
◆◆◆◆
「何でもないって」
漣は久次の手を軽く振り払った。
「ちょっと駅で絡まれたから、イライラして殴ったら、倍になって返ってきただけ」
久次は眉間に皺を寄せながら、尚も顔を覗き込んでくる。
「お前、喧嘩するタイプじゃないだろ……」
「しつれーな!俺だって男の子なんですぅ!」
少し子供っぽいと思ったが、これくらい大げさに馬鹿っぽく言わないと、さらに追及されそうだ。
漣は口を尖らせて見せた。
「どこの生徒だ?」
「わかんなーい。学ラン来てたから、高校生か中学生かもわかんない」
「……本当か?」
「本当だよ」
そこまで言って久次はやっと納得したのか、小さく息を吐いた。
「気を付けろよ。もうお前ひとりの身体じゃないんだから」
「……あれ。俺、いつ孕んだっけ?」
「茶化すな。真面目に言ってるんだ」
久次は軽く腕を組んだ。
「へーへー。わかってますよ。先生は俺の声だけが心配なんでしょ」
これ見よがしに顎を出して見せると、久次は今度は一転、少し困ったような顔になった。
「瑞野。俺はお前に歌を押し付ける気はないんだ。もし、本当に嫌ならソロパートだって、合唱部自体だって、嫌だと言ってもいいんだぞ?」
「へ?どゆこと?」
「最近休んでたから……。お前が本当に嫌なら無理強いできないなって」
久次は心痛そうな面持ちで目を逸らした。
「……なにそれ」
その視線が漣に戻る。
「俺がいなくてどうすんの?流浪の民」
「…………」
「カウンターテナーの俺がいて、なんぼでしょ!」
「瑞野……」
「いいよ。やるよ俺。合唱」
久次が漣を見下ろす。
「本当に大丈夫か?」
「うん」
「途中で逃げるのはなしだぞ」
「わかったって」
久次の眼が輝いてくる。
表情に陽が射す。
(わかりやす……)
その変化に漣は満足して微笑んだ。
「ふ……」
久次が笑った。
「すごい殺し文句だな……」
今までこんなに柔らかい笑顔を自分に見せたことなどあっただろうか。
中嶋には常にこんなに春の木漏れ日のような顔で微笑んでいるのだろうか。
「……その代わり」
漣は目を逸らしていった。
「は?」
予想通りの素っ頓狂な声が返ってきた。
「ギュッてして。中嶋にしたようにキスしてとか言わないから」
「お前……」
久次が手で目を覆っている。
「だから、あれは違くて……」
「いや、弁解とかキモいから。興味ないから、そこは」
何かを言われる前に、無駄に傷つく前に、漣は彼に手を翳した。
「ハグだけでいい。てかハグ以上すんな」
「なんだそれは……」
「頑張るご褒美。いいでしょ、そんくらい」
「……ずいぶん勝手だな」
久次は低い溜息をついた。
(やっぱ駄目か)
漣はふっと息を吐いた。
それくらいしてくれてもいいのに。
キスしてって言ってるわけでもないし、
セックスしてくれって言ってるわけでもない。
ましてや、
愛してくれなんて、言わないのに……。