コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
防空壕の跡 伍
「ツルさん、こんにちは」
翠野さんは私を連れて、『鶴屋食堂』という小さな看板の出ている古民家のような建物に入った。
戸口ののれんをくぐって翠野さんが中に声をかけると、五十歳くらいのおばさんが奥から出てくる。
うわぁ、この人も変な服、と俺は目を丸くした。着物の上に白い割烹着。古いドラマに出てくるお母さんの格好だ。
見回してみると、店の中も質素というか、古びているというか……。
呆然としながら観察していると、翠野さんが俺の背中を押した。
「この子、みことというそうなんですが、そこの通りで暑さにやられて倒れていたんです。少し休ませてあげてもらえませんか」
「あら、大丈夫かい?」
ツルさん、と呼ばれた割烹着のおばさんは、慌てた様子で俺に駆け寄って来た。
「この暑さだもんねえ、まったぬ参っちゃうよねえ」
そう言いながら俺を座敷に座らせ、湯呑みに入った水を出してくれた。ぺこりと頭を下げて受け取る。ありがたい、と思って口をつけたものの、予想外のぬるさに一瞬動きが止まってしまった。
室温とほとんど変わらない、生ぬるい水。
なんで氷を入れてくれないんだろう、と思ってしまう。でも、助けてもらった立場で文句なんて言えない。俺は黙って飲み干した。
そういえば、さっきは具合が悪すぎてあまり気にならなかったけれど、翠野さんがくれた水筒の水も、今思えばかなりぬるかった。
それにしても、食堂だというのに、暑い。
直射日光は当たらない分、外よりはマシだけれど、むっとした熱気がこもっている。
クーラーをつけないのかな、と思って首を巡らせると、天井にも壁にもエアコンは設置されていなかった。嘘、と口には出さず驚く。
今どき、エアコンがない店なんて、信じられない。
せめて扇風機、と視線を走らせる。
俺が腰かけている座敷の隅っこに一台の扇風機を見つけた。ずいぶん年季の入った、古臭い形。なぜか羽根は金属製だ。それに、
埃をかぶっているように見える。
「ああ、扇風機?」
ツルさんが俺の視線に気づいたのか、眉を上げて声をかけてきた。
「ごめんねえ、暑いよね。でも、あの扇風機、ずいぶん前に壊れちゃってね。今はもう使えないんだよ、ごめんねえ」
「あ、いえ、そんな」
「これで我慢してちょうだい」
俺が顔の前で手を振っていると、ツルさんはやけにレトロな絵柄のうちわを持ってきてくれた。
「俺があおぐよ」
翠野さんがツルさんからうちわを受け取り、ぱたぱたとあおいでくれる。
「えっ、ありがとうございます……」
ふんわりとした柔らかい風が、火照った頬や首を冷ましてくれた。
「まったくねえ、家庭用の扇風機が作られなくなって、もう何年だっけね」
ツルさんが世間話のような調子で何気なくそう言った。俺はツルさんからもらったおしぼりで顔を拭きながら、ふと変に思う。
家庭用の扇風機が造られなくなった?
いつの間に?
そういえば、うちだって十年以上前の扇風機を使っているけれど……。
もしかして、最近はどこの家もエアコンばっかりで、扇風機なんかなかなか売れないから、製造中止になったとか?
怪訝に思っている俺をよそに、翠野さんはツルさんの言葉に大きく頷いている。
「たしか、もう三、四年になるでしょう」
「そんなになるかねえ。うちの扇風機、おととし壊れたもんだから、新しいのはもう手に入らなかったんだよ。お客さんに暑い思いをさせるのは忍びないんだけどねえ」
「今は何事も軍需生産優先ですからね、仕方ありません。」
……グンジュセイサン?耳慣れない言葉を口にした翠野さんにちらりと視線を送る。
翠野さんはにっこりと笑い、俺とツルさんを交互に見た。
「でも、心配することはありません。しばらくしたら、この戦争も終わりますよ 」
安心させるような口調。でも、その内容がうまく頭に入ってこない。
……センソウ?戦争、って言ったの?
今。聞き間違いじゃないよね?
混乱した頭で考える。日本は今、戦争を
しているのだろうか。
いや、そんなはずはない。そんな話は聞いたことがない。ありえない。
でも、そういえば俺は新聞も読まないし、テレビニュースもほとんど見ない。お母さんとも最近はまともに話さないし、学校で世間話をするような友達もいない。だから、もし戦争が始まっていたとしても、もしかしたら知る機会がないかもしれない。
そんなことを考えながら、呆然と話を聞いていると。
「俺たちが必ずや敵国に痛手を負わせて、戦争を終わらせます。俺は、出撃したら、絶対に敵軍の中枢に突撃します。そのために特攻隊に入隊したんですから」
敵国……突撃……特攻隊?
なんだろう、この現実味のない言葉の連続。
教科書の中の世界みたいだ。
戸惑いを隠しきれない私は、決意に満ちた表情で語る翠野さんから、ツルさんへと視線を移す。
「翠野さんなら、必ずやり遂げるだろうねえ」
ツルさんは微笑みながら頷いた。
「もちろんです。天皇陛下の御為に、大日本帝国のために、国民のために、俺は絶対に敵艦を撃沈してみせます。そのために、誰よりも訓練に邁進して、操縦の腕を磨いて来たんです。まだ新人兵ですが、操縦の技術は上級兵にもひけをとらないと自負しています 」
翠野さんははっきりとした口調で、ひと言ひと言を確かめるようにゆっくりと語った。
……なに?さっきから何を言ってるの?
特攻。昨日の授業で、そしてテレビのニュースでやっていた。爆弾と片道分の燃料だけを積んで、『決して戻っては来ない』全体で出撃する。つまり、自爆だ。
絶対に死ぬという攻撃方法だ。
それを、こんなに当たり前のように語るなんて、意味がわからない。
というか、ここはどこなんだろう?
なんなんだろ、ここは。
私が知ってる場所とは思えない。
そのとき、ふと、横のテーブルに載せられている新聞が目に入った。見慣れない難しい感じがぎっしりと並んだ、不思議な紙面。
思わず手を伸ばして、日付を確認する。
『昭和ニ十年六月十日』
……え?どういうこと?
『昭和ニ十年』って……ってたしか、
一九四五年?昭和二十年、一九四五年。
その数字は、たぶん日本人なら誰もが引っかかるもの。
ー終戦の年だ。
日本が降伏して、昭和天皇が敗戦を告げるラジオ放送をして、長い間国民を苦しめていた戦争が終わった年。
ということは。
え……?ちょっと待て。やっぱり、わけが分からない。今、ここは、一九四五年なの?どういうこと?
頭の中をたくさんの疑問符が飛び交う。
俺は混乱したまま自問自答を繰り返した。
もしかして俺、今、昔の世界にいるの?
俺が生きてる時代の七十年前の世界に?
まさか、SF映画とかでよくある.タイムスリップ、ってやつ?
嘘……信じられない。そんなことってありうる?
俺はパニックに陥りながら、事態を理解しようと試みる。常識的に考えて、タイムスリップなんて、フィクションの、ファンタジーの世界の話だ。
現実にありうるはずがない。
でも、そう考えたら、今日の朝目覚めてから今までの間に感じていた不審な部分が、全て納得できる。
古びた木造の平家ばかりの家並み。
木の電信柱。
翠野さんやツルさんの不可思議な服装。
生えていない水。
エアコンもない家。
信じられないけれど……たぶん、そうなんだ。
俺は七十年前の日本に、タイムスリップしてしまったのだ。
それが分かった瞬間、私の目の前は真っ暗になった。
「……おい、君!」
「あんた、大丈夫かい!?」
心配そうに肩に触れる翠野さんの大きな手と、俺を覗き込んでいるツルさんの気配を感じながら、俺は意識を失った。