コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
………話は朝に遡る。
由樹は天賀谷展示場に出社すると、バッグを下ろし深呼吸をした。
今までの篠崎の指導と、昨日の彼の言葉を反芻し、一人頷く。
大丈夫だ。今日こそ、きっと次に繋がる接客が出来る。
一人壁にデスクに向かいながら頷く新谷を見て、珍しく早く来ていた秋山は微笑んだ。
「正面玄関、開けまーす」
紫雨が言いながら展示場に入っていく。
由樹は彼の接客を聞きながら、スタンバイできるようにその後ろ姿に続いた。
「昨日も時庭に戻ったの?」
正面玄関の重い両開きのドアを開けながら、紫雨は由樹を振り返った。
「あ、はい、一応」
「何しに帰るわけ?」
言いながらドアにストッパーを足で入れ込んでいる。
「えっと、別に何をしに帰るわけでもないんですけど。一応篠崎マネージャーから、一度時庭に帰ってくるように言われているので」
言うと自動ドアのスイッチを入れた紫雨は鼻で笑った。
「過保護だねぇ。そんなんで来月からどうすんだか」
(そうか。来月からは“時庭に帰る”ってことがなくなるんだな)
朝、天賀谷展示場に出社して、仕事をして、天賀谷展示場からまっすぐに家に帰る。
そんな日常が、もうすぐそこまで迫ってきているのだ。
今まで、紫雨に月に一度も会わなかったように、きっと篠崎にもめったに会わない日が続くのだ。
胸に鈍い痛みがじわじわと広がる。
「まあ。君にとっては今回の人事、よかったんじゃないの?」
「え?」
「だって、忘れられないでしょ?あんなに近くにいたら。篠崎さんのことを、さ」
紫雨は由樹の感情なんかお見通しだというように、スリッパを並べながら見上げた。
「あんな近くで、しかも生半可に可愛がられてたんじゃ、いつまでも父離れ、子離れできないぞ」
「俺たちは、そんなんじゃ……。それに俺には彼女がいますし、篠崎さんにだって、大事な人がいるんです!」
そうだ。篠崎には部屋に泊めてくれて、弁当を作ってくれる女性がいる。いる、はずだ。
「……篠崎さんに彼女?」
紫雨は展示場のホールを見上げると、
「ああ」
と小さく呟いた。
「あの人か。まだ続いてるんだ。結構長いよな」
「………」
“あの人”
“まだ続いてる”
“結構長い”
その言葉が反響して耳と胸に響く。
自分で言ったくせにダメージを受けている由樹を眺め、紫雨は楽しそうに笑った。
「いや、真面目な話さ?」
紫雨が距離をつめてくる。
「新谷君は、想い人に相手がいるから、しょうがなく2番で手を打つの?」
「……千晶は……俺の彼女は、2番とかそんなんじゃありません!」
「じゃあ1番?」
「当然です!」
「本当かなぁ?」
紫雨は鼻で笑った。
「俺の持論だけど、明確な1番がいるのに2番に落ち着いていると、痛い目を見るのは、その2番だよ」
「……なんで、ですか」
「だって」
その時、上がり框に人型の影が3つ映った。
「1番が絶対にふり向かない保証なんて、どこにもないだろ」
紫雨は振りかえり、出入り口に近づいてくる客を見上げた。
「君は、篠崎さんがもし振り向いたら、その彼女をどうすんの」
もう一度由樹に視線を戻すと、手のひらを大きく開いて、由樹の胸をドンと押した。
「その瞬間に彼女を突き放して、篠崎さんに飛び付く?……虫も殺さないような顔をして、案外君って残酷だね」
意外と強い力に、由樹が和室に尻餅をついた瞬間、自動ドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
紫雨が落ち着いた声を出す。
「本日は見学でいらっしゃいますか?」
由樹は慌てて立ち上がると、広縁に隠れ、ため息をついた。
(もし1番が振り向いたら?そんなことあるわけないだろ。ゲイ嫌いの篠崎さんが俺のことを……)
と、いつかの居酒屋でされたキスの記憶が蘇る。
抱き寄せられる腕の太さ、強さ、そして熱さ。
吸われる唇から漏れる欲望の息遣い。
嘗めとる舌の強引さとしたたかさ………。
(……ダメだダメだダメだ!!)
切なくなりそうな下半身に鞭を打つように由樹はその場で膝の屈伸を始めた。
(こんな大事な日に、あんなこと思いだしちゃダメだ)
リビングからは紫雨と客の笑い声が聞こえてくる。
「……よし。俺だって。今日こそは!」
由樹は気合を入れ直すために両手で頬を叩いた。
先日負った右手の火傷が、ヒリヒリと少しだけ痛んだ。
紫雨の客にお茶を出すタイミングを見ていると、展示場に見知った顔が入ってきた。
「あ……伊勢沢さん!」
それは、先月、祖母の葬儀を済ませたばかりの伊勢沢夫婦だった。
「新谷さんがこっちにいるって、篠崎さんに聞いたので」
2人は嬉しそうに由樹に駆け寄った。
「あの実は、叔父が祖母の遺産の叔父の取り分の一部を、私たちの家作りに当てていいと言い出して。“それが母さんの望んだことなら”って」
娘の方が頬を赤らめて言う。
「だから、ちょっと家のグレード上げようかと思って。ちょうどこの展示場の仕様がそれだって聞いたので、見に来たんです」
「そうなんですね、どうぞどうぞ!」
由樹は2人にスリッパをすすめると、展示場の中に招き入れた。
「……土地主の石澤さんって本当に待ってくれているんでしょうか」
しばらく展示場をみて雑談を交わしたあとで、娘が口を開いた。
「他のところでもっと高く買い取ってくれるところがあるから、と譲ってしまったりはしないんでしょうか」
キッチンに内蔵されている食洗器を開けたり閉めたりしながら、不安そうにつぶやいた。
「大丈夫ですよ。ちゃんと事情はわかってくれています。そもそも、金額でものを考える方ではないので」
にこやかに言うと、2人は顔を見合わせてほっとしたように笑った。
「来月、49日が済んだら、そちらの方も進めていけると思いますので」
「そうですか。わかりました」
由樹は夫婦を交互に見つめていった。
「じゃあ、時間はたっぷりあるので、どんな家づくりをしたいか、とか、間取りの希望など、いろいろじっくり考えることができますね」
娘がにっこりと笑った。
「はい」
言いながらスマートフォンを取り出す。
「実は、祖母は絵画を描くのが好きだったんです。家を建てるときはその絵を飾る場所もちゃんと考えて作りたくて」
「あ、それなら」
由樹は思わず手を叩いた。
「オプションでピクチャーレールっていうのがあって、それをあらかじめつけておいた方がいいですよ!」
言うなり、階段下からオプションカタログを取り出した。
「わー、素敵……」
2人がそれを覗き込む。
「本来壁の中身は施工ボードなので、あまり重いものを掛けてしまうと穴が広がって落ちてきてしまうんです。でもこういうレールをつければ、ちゃんと大切な絵も守れますよ」
「そうなんですね」
娘婿の方が目を細める。
「お祖母さんの思いを込めた、優しい家にしたいので。建てる時はぜひそのレールも入れてください」
「わかりました」
由樹は目を瞑って想像した。
日当たりのいいリビングに、祖母が一生懸命に描いた絵画がかけられている。
交し合う会話、響き渡る笑い声、混じって聞こえる赤ん坊の泣き声……。
それを味わうように大きく深呼吸をしてから、由樹は目を開けた。
「……素敵なお家になりそうですね」
言うと2人は顔を見合わせてにっこりと笑った。
2人が礼儀よくそろえて脱いだスリッパをしまっていると、後ろから紫雨の客がホールに出てきた。
「坂月(さかづき)様。それでは来週の木曜日、この展示場に9時で。軸組構法と壁構法のどちらの現場もご案内しますので」
靴を履く客を見送っているふりをして、紫雨が視線だけこちらを見下ろしてくる。
「家を見るなら構造を見るのが一番ですので」
(……構造見学会のアポを取ったのか。さすがだな)
由樹はその視線を避けるように、一歩引いた。
「構造なんて、なかなか見る機会ないから、楽しみね」
夫人が主人を見上げる。
「ああ。せっかくだから、勉強してから行かなきゃな」
主人も妻をにこやかに見下ろした。
(……随分、年の離れた夫婦だな)
由樹は白髪の混じる主人の薄い後頭部を見た。
「ええ、そうね……」
夫人が紫雨を振り返る。
紫雨や篠崎と同い年くらいだろうか。
肩までの長さで綺麗に内側に巻いてある髪の毛は、艶やかで、十分に手入れの行き届いているのがわかる。
(……あ、あれに似てる。パピヨン)
気品あふれる血統書付きの犬を連想しながらその顔を見ていると、彼女は主人にバレないようにふっと目線だけを紫雨に流した。
(………んん?)
その視線に違和感を感じ由樹は目を見開いた。
(なんだ?今の……)
自動ドアが閉まった。
と、紫雨が足で由樹の膝裏を蹴った。
「うっく……」
「おい。何、契約客を呼んでんだよ」
「あ、呼んだわけでは……」
「対応したら同じでしょ?君がお話している時間に何組の客が来たと思ってんだよ」
「す、すみません……」
腕を組んで睨んでいる。
「……悪いけど、うちの展示場の決まりで、契約客を土日に呼ぶような不届きものは、バッター順最後に回すから!」
「はい、申し訳ありません」
「全く!」
言いながら紫雨は踵を返すと、事務所に入って行ってしまった。
(あーあ。また怒られてしまった……)
決まりが悪くなって、振り返ると、先ほどの夫婦が駐車場に向けて歩いていくのが見えた。
(さっきの目つき、何だったんだろ……)
気にはなったが、これ以上紫雨の機嫌を損ねたくなかったため、由樹は言うのをやめてしまった。
午前中こそ昨日と同じように展示場にごった返していた客は、午後になると急に少なくなった。
「なんで?!」
なかなか回らないバッター順に焦り、窓にしがみつく様にして、がらんと空いた駐車場を見ていると、
「下松祭り」
隣に並んだ紫雨がにやりと笑った。
「今日、そこの河川敷で、下松祭りがあるから、客はみんなそっちに行ってるよ」
下松祭り。
聞いたことがある。
なんでも、昔、豊臣秀吉による天下統一の際に、極下川で大きな合戦が行われた。それを模して行われる合戦パレードには、毎年県民だけではなく、全国から観光客が訪れる。
「今日か。下松祭り……」
油断した。
午前中、伊勢沢夫妻でつぶれても、午後からいくらでも取り返せると踏んでいた。
……しかし。
由樹はホワイトボードに貼られたマグネットを見た。
自分のバッター順まで、あと4人もいる。
「そんなんで、アポとれんの?新谷君」
紫雨が口の端を上げて笑いながら、由樹の肩に肘を置いて寄りかかる。
「……約束、忘れんなよ?」
声というよりほとんど息しかないような囁きを耳に吹きかける。
軽く鳥肌を立てながら、由樹は人通りのない駐車場を眺めてため息をついた。