久次は腹の底から息を吐いた。
ロングブレス。
10秒で吐き切って、3秒で吸い込み、また10秒で吐き切る。
その呼吸法を繰り返していくうちに、頭の中が冷静になっていく。
中嶋には、誠意をもって謝った。
過去の恋人を重ねてしまったことも、正直に話した。
彼は納得できないような顔をしていたが、やがて頷くと、送っていくかという久次の提案を断りつつ、静かに音楽室を後にした。
(問題は……)
青ざめた顔をしながら、全速力で駆けていった瑞野だ。
軽蔑しただろうか。
自分のことも、暇つぶしに興じたあの汚らしい大人たちと同じように彼の眼には映ったかもしれない。
調子笛をあげたときの、少し照れたような顔を思い出す。
頭を撫でたときの、素直に閉じた目蓋を思い出す。
せっかく……。
せっかく、少し心を開きかけてくれたと思ったのに……。
とても絵画教室に行く気にはなれなかった。
彼もまた、きっともう音楽室には来ないだろう。
二度と楽譜を開いて、自分のことを見上げながら、少し恥ずかしそうに歌うこともないだろう。
久次はグランドピアノの椅子に座った。
軽くワイシャツの腕を捲る。
背中から指先に向けて、力の波が抜けていくイメージ。
それを3回繰り返すと、手首の力は適度に抜け、背骨と指先が一本の芯で繋がった。
目の前の譜面台には、“流浪の民”が開いてある。
久次は鍵盤に指を乗せた。
譜面を見ながら、鍵盤を見ずに軽く叩いていく。
この曲を弾くのは初めてだったが、やはり弾きやすい。
歌と拍がずれることもないし、素直に旋律を奏でるピアノは、軽やかで激しくて、抑揚があって物語を描いて。
弾けば弾くほどその世界に引きずり込まれていくような感覚に飲まれた。
中嶋が弾いて……。
瑞野があの高音で歌ったら……。
さぞ素敵だったろうに……。
失ってしまった奇跡のチャンスを想い、鍵盤を弾きながら目の端から涙が零れた。
自分はあのころからちっとも変っていない。
大切な人を守れなかったこと。
乙竹という脅威に負けてしまったこと。
この世を、諦めたこと。
この世を諦めた彼を、止められなかったこと。
全て。
全てが……
今も尚、自分の身体を蝕み続けている。
音楽室のドアが開いた。
「……あれ?まだ残ってたんですか」
そこに立っていたのは、柔道部の顧問である大橋だった。
「鍵、お願いしてもいいですか?」
大橋は頭を掻きながら言った。
「あ、わかりました。大丈夫です」
言うと彼は困ったように笑った。
「もうすぐ9時ですよ?クジ先生。なーんちゃって」
言いながら笑っている。
ふっと笑いながら小さく息を吐いた。
「久次先生。練習熱心なのはいいですけどね。そろそろ生徒は帰さないとまずいんじゃないですか?」
「……生徒?」
中嶋が戻ってきたのだろうか?
首を捻ると、大橋の大きな身体の後ろから、学生服を着た小柄な身体がひょっこりと姿を現した。
「お前……」
そこには俯きながら、唇を結んだ瑞野が立っていた。
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