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「瑞野……!」
立ち上がった久次に瑞野はそろそろと俯きながら近づいてきた。
「じゃ、頼みましたよー」
大橋が間延びした声を出しながら去っていく。
音楽室の防音扉が閉まったのを横目で確認しながら、瑞野はグランドピアノの椅子に寄せて置いてあったパイプ椅子に座った。
「先生、めっちゃピアノ上手じゃん」
「……え」
「さっきの“流浪の民”でしょ?てっきりまだ中嶋がいて、弾いてるんだと思った」
「瑞野……」
感情が読み取れない、俯いたままの顔を覗き込む。
「さっきのは……」
「クジ先生」
瑞野は視線を落としたまま言った。
「……俺、それ聞かなきゃダメ……?」
「え?」
「中嶋の話、聞きたくない」
言いながら彼のなぜか汚れた上履きの爪先は、互いを擦り合うようにスリスリしている。
「でもあんたのピアノは聴きたい。もっと弾いてよ。今度は別の曲」
そのなぜか泣きそうな声に、胸が締め付けられる。
(……今、話をしようとしても無理か……)
それでも彼は、戻ってきてくれた。
久次は背筋を伸ばした。
選んだのは“渚のアデリーヌ”だ。
フランスのピアニスト、リチャード・クレイダーマンが1976年に発表した、生まれたばかりの次女アデリーヌに捧げたこの曲は、世界的に大ヒットとなり、日本でもポピュラーな曲だ。
クラシックよりも馴染みがあるかと思い、この曲にしたが……。
横目で瑞野を見てみる。
彼はやはりうつむいたまま、長い睫毛に影を作り黙って聴いている。
上履きのつま先は擦り合わせたままだ。
「瑞野……」
弾くのをやめてその顔を見つめると、
「先生は……」
その唇が小さく動いた。
「先生は、ピアノも上手いんだね」
「……」
何を言うかと思えば……。
久次はふっと吹き出した。
「そりゃあ、どうも」
「……この間の話さ」
瑞野は顔を上げないまま話し出した。
「テノール歌手は履いて捨てるほどいて需要がないから、歌手の道を諦めて指導者に回ろうと思ったって話」
「……ああ」
「なんで音楽教師にならなかったわけ?なんで、古典なの?」
「………」
瑞野はそこで僅かに視線だけ上げた。
久次は鍵盤から指を離し、身体を反転させて、瑞野を正面から見つめた。
「……ならなかったんじゃない。なれなかったんだ」
そして太腿の外側に置いてある瑞野の手を取り、自分の喉に触れさせた。
「喉が潰れてる」
「……え?」
「正確には、声帯が潰れているんだ。お前が気づいたんだろ?俺の声が掠れてるって」
瑞野の大きな目が、久次の瞳と喉を往復する。
「だから俺は、もう歌えない」
漣は久次のまっすぐに自分に注がれる視線を見つめ返した。
衝撃的だった。
久次が手を離そうとしないので、遠慮なくその喉を触る。
身体の線は細いくせに、逞しく引き締まっている首。
その真ん中に突出している喉仏。
こんなに男らしくいい形をしているのに。
声帯というのがどこを示すのかわからなかったが、この奥の何かが壊れていると思うと、途端に切なくなった。
だからあんなに執着するのか。
合唱に。
漣の声に。
音楽に。
一度、自分から引き剥がされた音楽を、今度こそ奪われまいと必死になのだ。
久次は、こんなに歌が好きなのに、歌えない。
自分は、こんなに久次が好きなのに、叶わない。
それはひどく似ているような気がした。
ついその喉に見惚れて、顔を上げてしまった。
「おい……!」
久次が気づき、もう一つの手で漣の顎をぐいと上げた。
「これ………誰にやられた……?」
(ヤバい。気づかれた……)
漣の頬は赤く腫れて、口の端からは血が滲んでいた。